魂蝕

 広大な──洛陽に比べたら規模は小さいだろうが──宮城の一角に、これまで文官がしたためてきたり遠方から取り寄せたりした書簡類の眠る書庫がある。ただ静かに過去を積み上げるだけのための部屋は滅多に開かれる事がなく、宮城に詰める官吏の間でもあまり認知されていなかった。
 その存在感さえ希薄な室内から壁越しに、物の落ちたか倒れたかしたような音が聞こえたのは気のせいだろうか。
 ただの空耳やもしれぬ。けれど賊の可能性を否定できず、通り掛かった馬超は扉の一枚をそっと引いた。
 存在は曖昧でも手入れは常日頃から怠っていないらしい。音もなく開いた隙間に身を滑らせ、また何事もなかったかのように扉を閉めた。物音がしたと思われた方へ、足を忍ばせ近付いてゆく。
「────……」
 やはり何者かが、この部屋へ入り込んでいたようだ。内容は聞き取れないまでも、会話らしき声がする。
 無論、賊と決まった訳ではないが、場合によっては手引きした輩共々捕らえねばなるまい。
 佩びた剣では長すぎると懐に呑ませた匕首に手を掛け、馬超は書棚の影に身を寄せた。
 近付いた分、声が一層明瞭になる。
「以前よりお慕いしておりました」
 若い男の声だった。
 緊張を孕んで聞こえるのは、恐らく積年の思いが込められているからだろう。改まった口調に抱いた些かの違和感も、思考を転換すれば納得がすんなりと胸に落ちた。
 相手が同年輩の女官ではなく、指導役の官吏だったなら何の不思議もない。
 男二人が情人同士になるというのは、多数派か少数派かと問われれば、もちろん少数派に当たる。だが、だからといって忌避するほどのものでもない。第一に馬超自身が同じ将軍職にある趙雲を連れ合いにと決めているのだ。他人の嗜好に口出しをする謂われはない。
 ともあれ、賊の侵入ではなかった事に安堵する。
 匕首から手を離し、あとは勝手にやってくれとばかりに入り口へ向けた足は、しかし次の瞬間床に縫い止められたように動かなくなってしまった。
「すまないが、私には応えられない」
 断るのに、馬超の眉が吊り上がる。
 聞き間違えようもない、趙雲の声だった。
 袍の裾を翻し、再び暗がりに沈み込む。
「一度だけでよいのです。どうか……」
 縋る言葉からは、過剰に帯びた切なさが滴り落ちるようだ。もしかしたら、本当に胸にしがみつくぐらいの事はしているかもしれない。
 思った途端、堪えられない──否、堪えたくない殺気が裡から膨れ上がった。
 幾度となく腥風の吹く戦場を潜り抜けてきた趙雲には気付かれただろう。相手の男にも勘付かれただろうか。それでも一向に構わなかった。むしろ、抑止力になって都合が良いとすら思う。
 けれど馬超は書棚の間の狭い通路で息を潜め、動く事はしなかった。薄蜜色の眸に剣呑な光を宿し、野に放たれた細作のように暗闇から此岸を冷たく睥睨する。指一本ですら身動いだら最後、男を葬り去るまで止まれないだろう己が容易く想像できたからだ。
 大切なものを喪った苦い過去を、昔ほどあからさまではなくとも馬超は未だに引き摺っている。
 圧倒的な力をもって領土を広げてゆく曹操の前に、一度は膝を屈せざるを得なかった。家族も故郷も、拠となる総てを奪われ、ひたすらに復讐だけを希う修羅と化した馬超を人の道に引き上げてくれたのが劉備であり、趙雲だ。
 二度と同じ轍は踏むまい。
 自分に言い聞かせるように口を強く引き結び、鈍く陽を弾く睫毛を静かに伏せた。
 そうしてどれくらいいただろうか。
 書棚越しに二つ、三つと言い募る声が聞こえる。間を置かず人の動く気配がしたのに目を上げれば、細長い視界を男が小走りに過ぎていった。
 終ぞ馬超の存在に気付かなかった横顔には見覚えがある。平素、丞相府に詰めている諸葛亮付きの文官だ。武官であるにもかかわらず気心が知れているせいか何くれとなく諸葛亮から用を言い付かる趙雲の事、大方、丞相府に呼ばれた時に見初められでもしたのだろう。
 武に秀で、主公の覚えもめでたくあるのに、将軍職の持つ権力を笠に着るでもない。加えて眉目秀麗、当たりも穏やかな人格者となれば、男女を問わず人気があるのも当たり前だ。
 難儀な事だと、また何処から湧いて出るかもしれない手合いを思って溜息を吐く。
 尤も、突然現れて横合いから奪い取ってゆこうなど、そのように都合の良い事を許すつもりは毛頭ないが。
 趙雲が絡むと何処までも貪欲で残酷になれる自分を緩く嗤いながら、馬趙は闇溜まりから足を踏み出した。一人きり、待っているだろう彼の元へ歩いて行く。途切れた棚端に首を巡らせれば案の定、呆れた風情を滲ませた趙雲が立っていた。
「邪魔をしたな」
「あれだけ強い殺気を漂わせておいて、よくもまぁそんな事が言えたものですね」
 咎める言葉を紡ぎながら、形よい口元にはうっすらと笑みが浮かんでいる。機嫌は悪くないらしい。
「一夜の情けを乞われたか?」
 ならば、と寄せた耳元に低い声を吹き込む。
 冗談交じりにも際どい事を問えるのは、たとえ真実告白されていたとしても趙雲が応じる訳がない、という絶対否定を確信しているからだ。
 予想通りと言うべきか、趙雲は一つ頷き返し、だが珍しく「でも」と小さく含羞んだような声が続ける。
「私を……」
「……なに?」
 余程恥ずかしかったのだろう、中途半端にそれだけを言って口を噤んでしまったが、先に繋がる言葉を馬超はいとも簡単に探し出した。
 ──私を抱きたい、と。
 恐らくは、そんなような事を言われたのだろう。
 もちろん、拒絶した事に変わりはないが、そうかといって情人として気分の良いはずがなかった。
 美丈夫とはいえ武勇で鳴らした趙雲は上背がある事も相俟って、これまで付け文をもらうにしろ言い寄られるにしろ、受け身の相手ばかりだったと記憶している。それがどうだ。あの名も知らぬ文官は、あろうことか趙雲の嫋やかな肢体を貧相な腕に抱こうと大それた望みを持ったのだ。
 諸葛亮の気に入りだか何だか知らないが、やはり縊っておけば良かった。
 言い訳なら後からどうにでも弄する事ができたのにと、己の見通しの甘さを噛む。
 そして思った。
 男の劣情を煽る色香を、趙雲は何時、何処で覗かせたのだろう。彼が内に秘めた華は自分だけのものであるのに。
「子龍」
 呼び掛けた声が孕む明らかに不穏な響きに怯えたのか、趙雲の肩が微かに揺れた。
「お前から誘ったのか?」
「な……っ」
 それでも逃げる気配のない腕を強く引き寄せ、俯き気味の視線を無理矢理に交わらせる。
 投げた言葉に傷付いたようにも、不安に揺れるようにも見える眸で、趙雲は馬超を見返した。
「随分艶っぽい真似をする」
 己の顔を確かめる事はできないが、恐らくは苛立ちを隠しきれない声音そのままに戦場に立つ時のような苛烈な眼差しで彼を見ているのだろう。
 無自覚の内に怒りの矛先が、あの文官から趙雲に向いていたようだと、馬超は初めて知った。
 長坂の一件も手伝って武功ばかりを取り上げられ勝ちだが、彼は決して暗愚な質ではない。難解な諸葛亮の策を一度で飲み込めるほどには聡明で、何らかの問題が立ちはだかっても機転を利かせて上手く立ち回る事もできる。しかし、自分が持つ魅力には今ひとつ鈍いところがあると思っていたのだが、どうやら考えを改めなければならないようだ。
 いや、わざと見ないようにしていたと言うべきなのかもしれない。
「いつの間にそんな手管を覚えたんだか」
 腹立ち紛れに貶める言葉を吐き捨てれば、一瞬瞠った目を細めた趙雲が鼻の奥を擽るような声を立てて笑う。
「……元はといえば、貴方が私に教えたのでしょう」
 今度は馬超が眸を瞬かせる番だった。
 猫のようなしなやかさでその身を馬超に擦り寄せ、あざとくも淫蕩に微笑む。
「こうすると、動けなくなる」
 自由な指を馬超の頬から顎に滑らせ、突き出した喉仏を爪の先で掻くように撫でた。
 てきめんに背中を情欲が駆け上がってゆく。
「貴方も」
 閨で聞く囁きに似た声色に息を呑み、咄嗟に強張らせた馬超の手から、趙雲の腕が抜け出した。
「でも私は、彼には何もしていない」
 僅かに顎を引き、落ち度はないと言い切る趙雲の顔に先程までの色香はない。
 演技していた事は過ぎるほどに明白で、変な知恵をつけてしまったと、馬超は密かに舌打ちした。
「そうか」
 憤りのままに再び趙雲の手を取り、勢いに任せて木材を組み合わせた壁に押し付ける。
「ぃ……っ!」
 背中を打ち付けた痛みにだろう、美貌が軋んだ。
「だが、奴はお前に誘われたと思った。理由はそれで十分じゃないのか?」
 一方的に糾弾され、不快気に眉根を寄せた趙雲の耳殻に、馬超が遠慮なく噛み付く。
「あ」
 薄く付いた歯形を舌先で舐め上げると、慣らされた身体は素直に震えた。
「もう一度教えてやらないといけないな」
 今し方趙雲がしたように、淡紅を刷いたような眦から頬にかけてを指で撫で、行き着いた顎を掌に捕らえる。その先を期待しているのか、振り仰がせて交わした瞳は既に潤んで、天窓から射す陽光に煌めいていた。
「お前が誰のものなのかを」
「も、うき……」
 綻んだ合わせからちらりと覗く舌先に乞われるまま唇を塞いでやれば、安堵に腕の中の身体が撓む。絡めた舌を強く吸い上げた途端、喉の奥で上がった悲鳴は軽く達したせいかもしれない。
 袍の背に寄った皺が一層深く刻まれたのに気付いて、馬超はひっそりと笑った。