愁雲

執務を押し付けて姿をくらました馬超を捜し、馬岱は城内をうろついていた。
 うろつくとは言っても、おおよその行き先はわかっている。背後に西涼が控えた山並みを一望できる、城壁の望楼だ。帰れない故郷に最も近い場所。
 馬超は時折にそこに登っては、空の果てを眺めている。
 帰りたいのだろうか。
 そう言うとまるで他人事のようだが、もちろん馬岱にしてみても帰りたくない訳がない。ただ、馬超ほどには望郷を強く念じてはいない気がするのだ。もしかしたら、そこに宗主と、そうでない者との違いがあるのかもしれない。
 故郷に戻って一族を再興する。
 そうして亡き同族への責任を、馬超は果たそうとしているように思えてならなかった。
 支えられるものなら粉骨を惜しみはしないが、馬岱にできることには限りがある。手の及ばぬ所で重圧に押し潰されはしないか、あとは祈るより他に術はない。
 それに、と馬岱は言い訳のように思いながら城壁へ繋がる階に足を掛けた。
 この国は、ひどく居心地が良い。
 乾いた地域で生まれ育った馬岱にとって、湿り気を帯びた成都の夏を越すのは難儀以外の何ものでもなかった。だが三月ばかりの不快を我慢して過ごしても良いと思えるものが、この国にはある。長閑な風情であったり、誠実な人となりであったり。
 その全ての大本が劉備の掲げる仁であると言えるかどうかは、正直、馬岱にもわかりかねている。それでも、馬超が以前より遙かに穏やかな表情を浮かべているのを見ると、蜀への帰順は間違っていなかったと確信を持てるのだ。
 登り切った城壁から見る空は、珍しく晴れて蒼い。
 夏の近さに苦笑しながら望楼に目を向ければ、果たしてそこに馬超はいた。今日はそこに寄り添う影が一つある。趙雲だ。
 彼らがただならぬ関係である事を馬岱は知っている。もちろん、直接に真相を聞かされた訳ではないし、訊いたのでもない。馬超の側近くに使えている内に、自然と彼らが交わす情の深さに勘付いただけだ。馬超の執務室で、影に隠れて密かに口を吸い合っていたのを目にして慌てた事もある。
 気付いた当初は、これ以上何にも動じないと思い込んでいた馬岱でさえ狼狽えた。一族の命運を双肩に担った宗主が、あろう事か男と睦んでいるのだ。たとえば、どこかの美姫にでも目移りしそうな気配が馬超にあるならともかく、互いしか視界に入っていないような様子では翻意も促しにくい。
 しかし、最近ではそれも良いかと思うようになっていた。
 中興が不可能だというのではない。二人を無理に引き離してまで血統を繋ぐ事が本当に正しいのか、馬岱には判断が付かないのだ。別れて傷付き沈んだ馬超を見るくらいなら、先はなくとも今のまま幸せそうな顔でいる方がずっと良い。
 尤も、そんな事を言い出したら、先代の宗主であった馬騰の兄であり補弼でもあった亡父にきつく咎められかねないが。
「夢に出てきたりして」
 呟けば、父の面影がふと脳裏を過ぎる。真面目な人だった。賢明な弟に信望が集まるのにも卑屈にならず、よく佐けていた優しい人でもあった。その一方で間違った事や曲がった事の大嫌いな厳格な面も持ち合わせていたから、一族の背信に走りかけている馬岱の夢枕に立つのも強ちないとは言い切れない。
「はは……」
 少しも面白くない冗談だと、気の抜けた苦笑を零す。どこに向けたらいいのかわからず泳がせた目が、ちょうど望楼から降りてきた二人を認めた。
 このまま彼らの前に形を晒しては、まるで覗き見をしていたようで些か気まずい。
 馬岱は咄嗟に物陰に隠れた。
 誰もいない前提があるからだろう、二人の間にはいやに親密な空気が流れているように見える。実際には親密どころの話ではないのだが、衆人の元にある時の殻にくるんだような遠慮がない。
 恐らくは、あれが彼らの自然体なのだろう。
 何か当てられたように思え、階の降り口へと向かう二人から視線を逸らした。
 ごちそうさま。
 声には乗せず胸の中で独り言ち、暫くの間を置いて階の方を見ると馬超は執務室へと戻ったようだ。見送ろうというのか、趙雲だけがそこに立っている。
 何かまだ用があるのだろうかと眺めていると、彼はおもむろに馬岱の方へと振り返った。
「馬超殿なら室へ戻られましたよ」
 控え目に湛えられた笑顔の中にあって、目元だけが撓んでいない。
 一見、穏やかな表情が孕む凄味に馬岱は小さく溜息を吐き、潜んでいた壁の影からのそりと出て行った。
「覗き趣味をお持ちとは知りませんでした」
 優しい顔をしてきつい事を言う。
「そんな訳ないでしょうが。偶然ですよ、偶然」
「それは失礼」
 戯け気味に肩を竦めてみせれば、心底おかしい訳でもないだろうに趙雲は微かに声を立てて笑った。腥風に慣れた馬岱でさえ背に冷たい汗の流れる、凶事を連想させる微笑だ。
 喉の奥が干上がったように痛い。ひび割れそうな程に乾いた唇を、舌先で一舐めする。
 普段の美貌ばかりを眺めていると忘れがちになるのだが、万を超える敵を単騎斬り捨てた長坂の英雄は、確かにそこにいた。
「私も執務がありますので、お先に」
 そんな馬岱の緊張などまるで知らぬ風に趙雲は頭を軽く下げると、階へ向けて踵を返した。
 途切れた視線に繰り糸の切れた心地を得て、馬岱が密かに息を吐く。
 それを見越したかのように、たかが数歩進めただけで趙雲は足を止めた。「ああ、そうだ」と、たった今、思い付いたように背中が呟く。
「馬岱殿は上策を講じられるのだとか」
 見返るでもなく、肩口に覗く僅か俯いた口元が心にもない事を言った。
「買い被られても困りますよ」
「そうですか。では一つだけ……よからぬ事は企まれませんよう」
「……あなたも」
 声の柔らかさに隠して穿たれる棘を馬岱が嗤う。
「若を裏切るような真似をした時には、全力でお相手しますよ」
 俺が、と重ねて言えば、趙雲の口角がきゅうっと上がった。彼はもうそれ以上は何も言わず、笑みも収めぬまま背を向けて階を降りてゆく。
 淡い翡翠色の袍が暗がりに溶けて見えなくなって初めて、馬岱は自分が息を詰めていた事に気が付いた。
 ざらついた遣り取りの合間、ほんの一瞬の沈黙が熱気を払ったとでもいうのか、先程に比べ周囲が温度を下げたようにも思う。
「よからぬ事、ねぇ」
 後味の悪さを誤魔化すように癖の強い髪を掻き、馬岱は呟きになぞった。
 本当に、そんな事を心配しているのだろうか。そのためだけに、総毛立つほどの殺気を放ったというのか。あれは戦場に迸る気配よりも、どちらかといえば脅えに似ていた。生命の危機に瀕した動物が間際に見せる、生に執着する本能に。
「ああ、そうか……」
 一つ魂を二つ身にわけたような馬超と趙雲を、誰が引き離せるというのだ。出逢った末にそんな事をしたら、きっと彼らは生き存えられない。
「わかってて、できる訳ないでしょうが」
 そこまで鬼にはなりきれないと、聞く者もないままに馬岱は言った。
 九泉で先に待つ父親には、あとでこってりと絞られそうだが致し方ない。それで馬超が苦しまずに済むのなら、小言の一つや二つ引き受けてやろうというものだ。
「感謝してよね、若」
 人に聞かせるつもりもなく戯けた風情で言い放つと、馬岱は故郷に続く空へ背を向けた。騎乗に都合の良いように短く括った袍の裾を翻し、階の口へと足を踏み出す。
 風に吹かれてゆく雲に紛れ、振り返る過去は愁い諸共押し流されて消えた。