郷愁

 時折、城壁の上に立つ馬超を見掛ける事があった。そういう時、彼は決まって北の方角を向いている。
 確かめた事はなかったが、聳える峰々を越えた先にあるのが彼の故郷であるのは明らかだった。
 馬超と馬岱の二人だけを現実に置いて遠くに失せた過去を懐かしんでいるのだろう。
 それは彼の慰めとして必要なのかもしれなかったが、その光景を目にする度、趙雲の胸は鈍く痛んだ。
 孟起。
 平素なら簡単に声に乗せられる字でさえ、他人を拒むように舌根に貼り付き重く積み膿んでゆく。そうして脱け殻に行く手を阻まれた趙雲の恋情は、出口を求めて常にのたうっているのだ。
 もっとも、趙雲の躊躇いに気付かぬ馬超ではない。
 しばらくすると決まって彼は振り返って趙雲を捜し出し、どうした?と問い掛けるのだった。
 そうした時の趙雲の答えも、ただ横に小さく首を振って否を返すだけと決まっている。彼に渡すべき言葉を持ち得ないからだ。
 それを今日に限って不満に感じたのはきっと、肩越しに覗いた横顔がいやに幸せそうに見えたからなのだろうと思う。
 過去にこそ彼の幸福が存在するのだとしたら、自分は──今、ここにこうして立ち竦んでいる自分は振り向いてもらう事もできずに足掻き続けるしかないではないか。
 そんなのは耐えられない。
 胸を塞ぐほどの焦燥に、趙雲は唇を噛んだ。
 どれだけ手を伸ばしても過去は、もう孟起を包んでくれない。時を経て膠着してゆくばかりの面影など訣別してしまえばいい。代わりに、私があなたを抱き締めるから。
 告げたくて告げられない──告げてはいけない言葉を呑み込み、趙雲は足を踏み出した。沓の下で砂が音を立てるのも構わず、馬超に近付いてゆく。
 だが、余程深く思考に浸っているせいか、彼が振り返る事はなかった。
 古い柵に馬超を奪われてしまったようで、それがまた口惜しい。
 差し出せばすぐ触れられるだけの距離を開け立ち止まった趙雲は、顎を突き出すように顔を上げるとおもむろに口を開いた。
「孟起」
 急に字を呼ばれて驚いたのだろう、身を捩った馬超の頬を両掌で挟み取り、振り向き様に口付ける。
「し、りゅ……!」
 趙雲から口付けるなどほとんどないに等しいからか、滅多に見られない慌てた様が痛快でさえあった。
 腹癒せを通り越して胸がすく思いに、趙雲が微かな声を立てて笑う。
「何がおかしい」
「いいえ、何も」
「変な奴だな」
 拗ねたみたいな口調の割には満更でもなさそうな馬超が、酷く穏やかに目元を綻ばせて額を押し付けてきた。
 趙雲が不安を覚えずにいる事が、彼の心を弛ませるのかもしれない。
 ともすれば共依存とも取られかねない関係に気持ちは満ち足りて、趙雲は知らず笑みを深くした。
「子龍」
「……はい?」
 呼ぶ声に従い、馬超を見返す。
 すると彼は趙雲の肩に腕を回し、山の彼方へと目を向けた。
 琥珀色の視線を追って、自然、趙雲の眼差しも遠く──涼州の方へと飛んでゆく。
「戦が終わって劉備殿の言う仁の世を為し得たら、俺は涼州の地を願い出ようと思う」
 故郷に在りたいと思うのは、何も不思議な事ではない。むしろ馬超の場合、羌族の血を継いでいる事もあって、人一倍その気持ちは強いのだろう。
 だが、趙雲には頷く事ができなかった。
 涼州に帰って馬家を再興させる。
 それはつまり、今は濃密である二人の関係に終焉が訪れる事を示しているからだ。
 その時を考えて黙した趙雲の肩を抱く馬超の手に、不意に力が籠もった気がした。
 おや、と思う。柄にもなく、彼が緊張しているように感じたからだ。
「五虎将に名を連ねるお前にこんな事を頼むのは、礼を失しているかもしれない。故郷がある事もわかっている。だが……」
 懺悔にも似た声を搾り出す背を、苦しいのなら少しでも癒えるようにと趙雲が撫でる。
 その手の温もりに勇気を得たように、馬超は趙雲の顔を見た。
「許されるなら、涼州に来てくれないか」
「……え」
 思い掛けない言葉に目を瞠る。
「女々しいと嗤いたければ嗤って構わない。それでも俺は、お前を手放したくないんだ」
 錦馬超の二つ名がそうさせるのか、彼は常に自信に満ち溢れていて、不安に目を曇らせる事などないのだろうと思っていた。それが、自分のようなちっぽけな存在の去就に気を揉んでいたなど、誰が予想するだろうか。
「俺を哀れと思うなら、頷いてくれないか……頼む」
 剰え頭を下げるような真似までしようという。地位も名も得て、人の付き従うのが当然である彼が、だ。
 趙雲の全身を歓喜が貫く。憐れみなど欠片ほども感じるはずがない。
「……馬鹿な人だ」
 仄かな呆れを孕んだ声音に弾かれたように顔を上げた馬超へと、趙雲が莞爾と頬を緩ませる。
「そういう時は一言、付いて来いと言えばいいんです。頭を下げるなど、孟起らしくもない」
「だが……」
「今更、常山に戻ったところで血縁がある訳でもなし。根無し草と変わらない身の上ですから」
「子龍」
「それに、思った以上に手の掛かる将軍の守り役は何かと慣れた者の方が都合が……!」
 言葉の終いを待たず、強く抱き締められた。
「そうだな、俺の事なら今や岱よりもお前の方がよくわかってるくらいだ」
 嘘でも誇張でもない口振りに小さく笑い、厚みのある背に両腕を回す。愛しい思いを声に乗せる代わりに、肩口を埋める髪に頬を擦り寄せた。
「帰ろう、一緒に」
 家に帰ろう。
 祈るように呟いた馬超に趙雲は小さく、けれど確かに一度頷き返した。