終わりと始まりの狭間

 目を開けると、部屋はすっかり暗くなっていた。
 床が孕む僅かな温もりに寝覚めを引き摺る身体を起こし、ホットカーペットと毛布に挟まれたまま周囲を見渡す。手近なローテーブルの上に見付けた携帯電話に手を伸ばして液晶を覗き込めば、十一時を疾うに過ぎていた。頬に張り付いていた髪を指先で払い落とし、深く息を吐く。
 うたた寝をしていたのか。
 そう気付いたのは起き上がって、しばらくしてからだった。
 時間を無駄に消費してしまったな。
 ただでさえ少ない休日を、無為に潰してしまうのはひどくもったいない事だと感じた。それでも年末年始だからと連休をもらえているのは救いだろう。暮れも正月もなく働いている人々はごまんといるのだ。
 過ぎてしまったものは取り戻せない。
 仕方がないと半ば諦めつつ室内灯をつけようと立ち上がると、ちょうどインターフォンが鳴った。
 こんな時間に誰だろう。それとも携帯電話の時間設定が狂ったか。
 非常識ですらある出来事に無条件反射的に壁掛け時計を振り仰いではみたものの、そろそろ日本野鳥の会が年に一度の大舞台に立つ時間に近付いているのは間違いない。
 宅配便の配達に見せかけた押し掛け強盗だろうか。いや、十時前には配達を終える宅配業者がこの時間に出回っているのは余りにも不自然だから、偽装するなら正体の知れない新興宗教の勧誘の方が適切だろう。いずれにせよ、オートロックを謳ったマンションの癖に何とも甘いシステムだ。どうにかしろと、年が明けたら早々に不動産屋に言わなければなるまい。
 そんな事をつらつらと思う内、扉が三度ノックされた。
 少しリズムの早いこの叩き方を趙雲は知っている。馬超だ。
 だが年末年始は、未婚者という理由だけで立て続けに当直に駆り出されると言ってはいなかったか。
 まだどこかぼんやりとした頭でそんな事を考えていると、また扉を叩く音がした。今度は、先程より些か強い。
 焦れたようにも聞こえるそれに慌てて扉を開ければ、やはりというべきか馬超が立っていた。気短な彼らしく、右手に握った合い鍵を構えている。
「……何をしている」
「二年参りに行くぞ。おせちは帰ってきてからだ」
 鍵をポケットにしまいながら、馬超が言った。
「おせち?」
 訝る眉間に皺が寄る。
「孟起の分まで用意してないぞ」
 自分の分もだが、それは言わないでおいた。
「心配するな、岱に持たされた。オール手作りだそうだ」
 二人分ということなのだろう、小振りだけれどずっしりとした風呂敷包みが目の前に突き出される。
 つい両手で受け取ってしまった趙雲を押し退けて、馬超は家に上がった。
「そんな話は初耳だ。そもそも、年末年始は仕事だと……」
「初詣の話は今した。予定が変更になってここにいるのは、三が日分の仕事を今日一日でこなして二日までの休みをさっきふんだくってきたからだ。他に質問は?」
 ずかずかと人の家の床を踏んでいた足を止めて振り返り、言葉尻を奪うように畳み掛けられては続く声もない。
 端から見れば何事か言いたげだったろう開いた口を、趙雲はおとなしく閉じた。
「あんま時間ないんだ。支度しろよ」
 ほら、と玄関脇のフックから取り上げたコートを後ろから着せ掛けられる。
「え、ちょ……これ、」
 重箱を抱えてうろつくのに、馬超が呆れたような声を上げた。
「どっか、その辺に置いとけばいいだろう」
「そういう訳にはいかないだろ」
 しっかり者の馬岱の事だ、足の早いものは入れていないだろうが、それでも馬超の言うように適当に放置しておくのは気が引ける。そうかといって高さを測れば三十センチはあろうかという荷物を押し込むだけのスペースは、趙雲宅の冷蔵庫にはない。仕方なく、室内では一番気温が低いだろう寝室の隅に置くことにした。
 肩掛けにしたコートを翻し、寝室に重箱を置きに行って戻ってみれば、玄関先では馬超がマフラーを両手に持って構えている。
「さっさとコート着ろよ」
 まったく手間のかかる奴。
 そんなことをぼやきながら、マフラーを絶妙な力加減で巻き付けてゆく。意外なほど器用な手が端と端を軽く縛り、首もとにちょうど良い具合に収まった葡萄色の柔らかな塊を上から軽く叩いた。
「よし、準備完了」
 満足げに笑う馬超に促され、揃えてあった靴の片方に足を突っ込む。靴べらに踵を当てながら、けれど大事な何かを忘れている気がした。
 気持ち力を入れれば、するりと右足が靴の中に滑り込む。暖かさはないものの、寒気を遮断するだけで爪先からじわりと広がる体温に、脳裏に閃くものがあった。
「……あ、スイッチ」
 片足は上がり框に、もう片足は靴を履いて三和土にと、何とも中途半端な格好でリビングを振り返る。
 まだ家に上がっていたままの馬超が視線の先を追い、ホットカーペットのコントロールパネルを覗き込んだ。無造作に手を伸ばすと、ぱちりと音を立ててスイッチをオフにする。
「これでいいだろ」
 ついでとばかりにエアコンも消されてしまえば、否を唱える理由がない。尤も、今更嫌だの何だのと言える状況ではなかったが。
 残された左足に靴を履き、馬超が支度を調えるのを待って家を出る。開放廊下を吹き抜けてゆく風の冷たさに首を竦めた。
 完全に勢いに飲まれて出掛けてきてしまったが、合点のいかない事は少なくない。
 素直にエレベーターに乗り込んだのだから、せめて文句の一つでも言わせてもらおうと口を開き掛けたところで、馬超が小さく呟いた。
「悪かったな」
 拗ねたみたいにも聞こえる口調に横目を遣ると、彼は階数表示を睨み据えるように見上げている。
「家族が多かったせいか、一人の正月ってのがどうも苦手なんだ。お前は静かに過ごしたかったのかもしれないのに……巻き込んですまない」
 馬超の言い分は、大学進学を機に上京して以来、まともに帰省していない趙雲にも共感できるところもあった。
 家は確かにそこにあるというのに帰れない。帰らない。
 経過には故意と偶発の違いはあるものの、最終的な結果に大差は見出せなかった。
 本心を突き詰めてみれば、自分だって帰りたくない訳ではないのだろう。ただ、実家に帰れば、嫌でも両親と兄が健在だった頃の思い出が蘇って、却って物悲しい気持ちになってしまうに違いない。そんな憶測に尻込みをしているだけなのだ。
「……別に、いい」
 故郷を懐かしむ馬超を、感傷の一言で斬り捨てる事が出来ず、趙雲は小さく呟いた。
 俯いた拍子に揺れた手の甲に、無骨な指の背が触れる。
 それとも、彼から放射される仄かな熱を恋しく思うこの情動こそが、感傷なのか。
 そんな思いが、脳裏をよぎる。
 真実などわからないまま趙雲は、そっと伸ばした手で馬超の指を搦め取ると、エレベーターが一階に到着するまで離そうとはしなかった。


 街を見下ろす小山の上に鎮守の社はあった。
 吐く息が白い。しかし、社殿への長く急な階段には人の列がみっしりと充満していて、足元と顔だけが冷たく凍えている。革に覆われてなお、かじかみそうな爪先を、靴の中でもぞりと動かした。
 牛歩の速度で動く列に従って、ゆっくりと段を一つずつ上ってゆく。登り切った先に続く参道は、ずらりと建ち並ぶ露店に狭められ、張り出した屋根の先にぶら下がった灯りのせいで足元がいやに明るい。混雑しすぎて開店休業状態の露店を素見しもせず、ライトアップされた朱塗りの随身門を潜る。
 眼前に開けた前栽は、思っていたよりずっと広い。真ん中を一本貫く石畳の硬さを確かめるように靴裏で踏み締めていると、コートの袖の陰で握っていた拳が馬超の手に掬い取られた。「冷てぇ」とぼやくのが聞こえる。
 エレベーターの中では気付かなかったが、体温の高い彼に触れられた部分の皮膚は、軽度の火傷をしているようにひりひりと疼いた。隣に立っているはずなのに、服越しの腕や息遣いをひどく近く感じて目を瞑る。暗闇の中にあってなお、その圧倒的な存在感は揺るぎないものだった。
 以前、同僚の諸葛亮に冷徹だと評された趙雲が、今、人間らしく振る舞えるのは馬超の影響と言い切ってしまって間違いはない。いつだって、この胸を熱くするのは、彼だけだ。
「……孟起」
 込み上げる得体の知れない感情に任せて声をかけた瞬間、電子音が馬超との間から聞こえた。虚を衝かれたように隣にある端正な顔を振り向くと、間を置かず、あちこちから似たような音が鳴り始める。
 時計のアラームだ。
 その場に居合わせた誰もが気付いたのだろう、其処此処で新年の挨拶が交わされている。
 馬超が、こちらに視線を合わせた。
「明けましておめでとう」
 一瞬、言葉に詰まる。いつもの癖で、つい減らず口を叩きそうになったが、この場合、礼儀として返さない訳にはゆかない。
「……明けまして、おめでとう……」
 蚊の鳴くように小さな声は、きちんと届いただろうか。
 年始とはいえ、それほど改まらなくても良いと思う。慣れていないから照れるのだ。
 人の波がゆっくりと動き出す。
 周囲に生まれた間隙を縫う人の目に繋いだ手を見咎められるのを嫌って、趙雲は馬超に身を寄せて歩いた。
「しかし、お前が初詣するとはな」
「無理矢理人を連れ出したのは誰だ」
「それは……まぁ」
 迫るように文句を言えば、馬超がばつの悪そうに答える。
「別に不信心なんじゃない。信仰が篤い訳でもないが、必要なら神頼みぐらいはする」
「へぇ。なら何で……」
「……一人では、出掛ける気になれないだけだ」
 一人では出掛けない。
 それは暗に二人なら出掛けても良いと告げている事に気付いたのだろう、意外そうに向けられていた目が細められた。手を握る力が強くなる。
 今更の告白に気恥ずかしさが募って、熱を持った頬を隠すようにマフラーに顔を埋めた。空いている左手をコートのポケットに突っ込んで、初めて気付く。
「孟起、小銭」
 憮然と言い放ち、馬超に向かって手を突き出した。
 当の馬超はといえば、趙雲の顔と掌を見比べながら、呆れた風情の吐息を漏らす。
「……新年早々、カツアゲかよ」
「賽銭だ」
 どう捉えても人聞きの悪い言い種を、短い言葉で改めた。
「財布を持つ間もなく連れ出されたんだ、それぐらい奢れ」
「あ、悪い」
 理由にまで言及すれば、原因の所在は馬超の目にも明らかになる。悪い事をしたと爪の先程には思うのだろう、おざなりに謝罪はしつつ、しかし反省の素振りは微塵も見られない。誤魔化すように口元を緩め、探ったポケットから取り出した小銭を趙雲の掌に乗せた。
 賽銭箱の前まで進んで、さすがに手を離し、黄金色の五円玉を放って両手を合わせる。願い事を胸の内で唱えて顔を上げると、馬超がこちらを向いていた。
 好奇心が凝り固まったような蜂蜜色の眼が何を言おうとしているのかは、質すまでもない。
「何、祈願した?」
「孟起は?」
「商売繁盛、って言いたいところだが、あんまり繁盛されても困るから家内安全」
 馬超は答えて、複雑な表情で笑った。
 病院の繁盛は、即ち衛生状態の悪化を意味するのだから、医者という立場上は無難なところで手を打ったと言っていいだろう。
「そうか」
 納得した声を返しながら、本当にそうあれば良いと思う眦が笑みを刻んだ。
 祭壇に背を向けて次に譲り、拝殿を後にする。
「で、お前は?」
「現状維持」
「……それって、願い事って言うのか?」
「一々うるさい」
 何をして現状維持とするかも知らない癖に、とやかく口出しされるのが煩わしい。
「私には今のままで充分だ」
 だってもう、一番に欲しいものなら手に入れている。他の何かと言われたところで、元来の欲が薄くて想像力すら追い付かない。これ以上を望むものなど、趙雲の手元には何一つ残されていなかった。
 それが、彼には理解できないのかもしれない。
「……お前が、もう少し手を伸ばす事を覚えるように頼んどけばよかった」
「バカか」
 腑に落ちないと言いたげに零す馬超に、聞こえよがしに吐き捨てた。
「それは神頼みする事じゃないだろう」
 気付け、と言外に含ませて、顔は前を向いたまま上目遣いに睨め付ける。
 台詞の硬さを裏切る柔らかな声に振り返った馬超は、驚いたように目を瞠り、それから不敵に笑った。
「……そうだな」
 全てを悟った清々しさは、根拠のない自信に他ならない。けれど彼の目には、趙雲の目が捕らえるヴィジョンと同じものがきっと映っているはずだ。
 長い脚が、悠然と敷居を跨ぎ越す。
「帰ろうぜ」
 お札を受けに行くのだろう授札所へ向かう人の数に反して帰る足は疎らだというのに、暗がりから手が伸ばされた。
 それを迷いなく掴んだ指先に籠もる温もりは、趙雲の肌にもう随分と馴染んでいる。
「今年もよろしくな」
 内緒話めいた囁きが耳元に吹き込まれて胸が詰まった。
 鼻の奥がつんとして目頭が熱くなるのを感じ、慌てて瞬きをする。
 並んで歩く肩先に触れる腕の強さと温かい掌は、間違いなく馬超に与えられているものだ。
 こうして誰かと二年参りに訪れるなどと想像できなかった一年前は、既に区切られた過去の遺物と成り果てている。だが、時間は留まることなく動き続けているのだ。水の流れのような連続性の中で馬超や、諸葛亮や馬岱などの周囲を取り巻く人々に出会い、気付けばこうして同じ流れの中にごく自然に溶け込んでいる。
 今、この胸が締め付けられているのは、哀しいからでも、辛いからでもない。この奇跡のような偶然への感謝を、誰に捧げたら良いのかわからずに戸惑っているからだ。
「お前は?」
 涙腺よ、もう少しで良い保ってはくれ。せめて家に帰り着くまでは、いつもの趙子龍でいさせてくれ。
「……今年も、よろしく」
 どうにか言い切ると震えそうになる息をゆっくりと吐き出し、頬骨の下まで引き上げたマフラーに顔を埋めた。