ピアノ・マン

 仕事納めも疾うに過ぎた大晦日だというのに、都心のオフィス街への人出は多い。それは取りも直さず、新年を迎えるに当たって浮かれている空気のせいなのだろうけれど、以前の深く長い眠りが、まるで嘘のようだ。
 くだらない、とぞんざいに呟いた独り言は、誰の耳に届くでもなく溶けてゆく。
 あたかも誘蛾灯に引き寄せられた蛾みたいに、場違いなほど煌びやかな街並みに群れなす人々を横目にして、夜の谷間を車は裂いて過ぎた。
 見える人影の割に、車道を行き交う車の数は然程もない。地上に零れた燈色の星々を背に、酷く走り心地の良い角を一つ曲がれば、そこには未だ暗闇が安息していた。路上駐車の一台として見当たらない路肩に車を寄せ、エンジンを止める。細やかなヘッドライトを落としてしまうと、街灯の儚い光が暗がりに滲んですずろぐばかりだ。
 車から踏み出して佇んだ街角に、乾いた寒気が深々と降り積もる。
 ふ、と意識するでもなく曖昧にほどけた口元を掠めた吐息は、白く小濁りして虚空に帰った。それを追いもせず凝らすように見詰めた視線の先には、露地行灯が二つ、ぽつりと立っている。
 派手やかなバビロンからは程遠く、一間にも満たない間口は目立たない事此の上ない。だが、確かにそこに残された移り香のような彼の気配に、開いた眉根を微かに顰めた。
 外見の似通ったところのない従兄弟から連絡を受けたのは、年末だというのに容赦なくシフトに組み込まれた準夜勤を終えた時間帯に遡る。大変な事になっていると、何処かしら焦った様子でありながら面白がる風情の声音に、手早く着替えだけを済ませて駆け付けたのだ。
 サプライズ・パーティが招待でも構わないと腹積もっていたし、家に帰ったところで持て余すだけの暇もある。半信半疑で三十分余りの道程を運転してきたのだけれど、どうやら言葉に嘘はなかったらしい。
「夜勤じゃなかったのかよ」
 頬を撫でる風に舌打ちをして、黒く沈むアスファルトを蹴る。急いた足でガードレールを鮮やかに飛び越え、まろやかな蜜色に彩られた玄関口を、馬超は奥へと向かった。
 露地を模した通路は狭く、恰幅の良い者同士が擦れ違うには少しばかり難しい幅しかない。足下を照らす間接照明に導かれ、造作の良い飛び石を踏み行くと、突き当たり左手に店の入り口があった。使い込まれた木扉に、黒鉄の装飾が厳めしい。
 外気温に同化した、けれど肌触りの良い取っ手に手を掛ける。微かに軋んで開いた口の中は、上質な酒と夢の香りがした。
 立て回した漆黒が、ほんの少しの栗色を扱き混ぜて、閉ざされた虚空を柔らかく包み込む。BGMに流れるピアノの音色は永遠に打ち寄せる漣に似て、美しいばかりの微睡みに揺蕩うようだ。
 その所為だろうか。集う人々の囁きが、グラスにまろぶ氷の音が、嫋やかなメロディラインに踊る歌に聞こえる。
 まるで家に帰り着いたような安らぎに、これ以上を疑う余地はない。
 諦めの濃い手で脱いだ革コートを小脇に抱え、暗黙に任せて深い奥行きに足を進めた。
 照明は突き合わせた顔が辛うじて判別できる程に抑えられて、掻い潜る重さは黄昏時を連想させる。殊更に暗い人の背と壁の狭間を数えるでもなく擦り抜ければ、カウンターの中程を角にして、空間が右に向かって折れていた。床を一段低く設えたフロアは、お世辞にも広いとは言い難い。それでも、二十余りあるテーブル席は、その殆どが客で埋まっているようだ。
 見渡すまでもなく、対角に取ったスポットライトが人の目を引く。唐棣色を帯びた光が闇の帳を追い遣って、アップライトピアノの姿形を明らかにしていた。明瞭にはない光明の穂先の中、白いシャツを纏った背中が、揺らぐ。
 暗闇に秘された足下に臆しもせず、板張りのフロアに降り立った。近付いたテーブル席は中空を走る光束を僅かに外れながら、アンティークのピアノを傍らに見る。生まれたばかりの音の邪魔をしないようにだけ心を配り、向かい合う二脚の座席の内、壁を背にする椅子に手を伸ばした。それこそがいかにも決まり事であるかのような顔をして腰を落ち着けると、誰かに何かを言うより早く、頭上に影が射して離れて行く。一抱えばかりのテーブルに目を移せば、容積の半分程を薄紅に彩られた液体で満たした、華奢なフルートグラスが置かれてあった。クリスタルガラスに守られて、絹の泡が脆く弾ける。
 格を付ければ極上に分類されるだろうシャンパンは、けれど馬超のために供されたものではない。
 テーブルの端に頬杖を突き、静かに頭を巡らせる。肩越しに見る横顔はうっとりとした半眼をして、モノトーンの鍵盤を慈しむようでもあった。
 しなやかな指の繰る音は臈長けてゆかしく、彼の甘える仕草に似る。整わぬ文字、詠まれることのない言の葉に深い情を思って、知らず表情が笑みを含んだ。愛おしいと、今更に込み上げる感情に、身の朽ちるまで共にいようと誓う。
 透明なソナタの終を、狂いのない協和音が飾った。余韻が途絶え、しばし黙したのちに控え目な拍手が、何処からともなく疎らに聞こえる。
 ピアノの前に座していた男が、やにわにすくと立ち上がった。蓋を閉めて振り向き、迷いのない足を、つ、と進める。
 凛とした人影が近付いてくるのを、馬超はじっと見詰めていた。
「遅い」
 閑麗な口元が、無聊を託つ。
「なに言ってるんだ、馬岱の電話で呼び出されてから三十分で来ただろう」
 馬超はそれを受け流し、肘を突いたまま上目遣いに見上げた。
「大体お前、今夜は仕事じゃなかったのか?」
「夜勤だとは言ってない」
 同じ病院に小児科医として勤める彼のことだから、てっきり夜勤だろうと気を回していたというのに返る言葉は素っ気ない。
 挙げ句、何を思うのか、前触れもなく左手首の腕時計に鳶色の眼差しを落とすと、こんな時間か、と感慨深げに呟いた。取って返した手が、フルートグラスに伸びてゆく。袖口から覗いた時計のフレームが光を受けて、黄金色に煌めいた。
「だったら、さっさと帰ればいいだろう……って、おい、何処へ行く」
 シャンパンを一息で飲み干すなり、人の話に耳も傾けずに踵を返す。
 気に急かされて立ち上がった拍子に、腿の裏で蹴り飛ばした椅子が不作法な音を立てた。
 それを聞き咎めた訳ではないのだろうが、前を行く足が不意に止まる。
「帰る」
「は?」
 答えは、これ以上ないほど明確だった。にも関わらず、交わす話題の転換の速さに乗りそびれ、つい返してしまったたった一音の問い掛けは、だからこそ、静謐な空気に間抜けに響く。
 真意を質すように差し向けられた顔は、感じたのだろう不快を隠しもしない。
「迎えに来たんじゃないのか?」
 柳の眉が、気難しげに顰められた。
 何だか、嫌な予感がする。
「いやまぁ、そうだけど、それにしたって……」
「それにしたって、何だ。手遊びにピアノを弾き始めて、あれがちょうど引き上げる頃合いだった。それに合わせたように、馬岱殿から連絡を受けた君が私を迎えに来た。どうせ車で来てるんだろうから、君に酒を呑ませる事はできない。今だったら、どう足掻いたってアルコール反応の出る私がハンドルを握る訳にはいかないからな。だからといって、ここで夜明かししてそのまま出勤するなんて趣味はないぞ。それに、さっさと帰ってくればいいと言ったのは、どこの誰だ。つまり、これ以上この店にいる必要はないということだ。他に何か不都合は?」
「……ない」
 突然、繰り広げられた論理に、付け入る隙はなかった。肌を刺す言葉の刺々しさに項垂れて、馬超が小さく呟きを零す。
 元来、人を遣り込める事に快感を得る性質ではないのに、珍しくそんなものに気を良くしたのか、険を収めた爪先が出口を向いた。肩口に垣間見えた唇が、ふと得た趣向に笑みを噛む。
「ならいい。五分ロスした、行くぞ」
 断じるなり、用は済んだとばかりに、つと身を退けた。
「え、ちょっ、子龍」
 呼び止める声を顧みず、躊躇う素振りもないままに、趙雲が外に出て行く気配を見せる。
 椅子の背に掛けてあったコートを引っ掴み、遠離る後ろ姿を慌てて追った。脇目も振らずに歩いて行く趙雲の代わりに、途中、預けてあった荷物と報酬のシャンパンのボトルを受け取る。思い掛けず腕に堪える荷物を抱え、留まらぬ背中を尚も追う。颯とした道行を足早に伝い歩けば、歩道が半ばを越える頃、ようやく肩を並べる距離に近付いた。
「少しぐらい待ってくれてもいいだろう」
 誘われた不満を口にしながら、ガードレールを跨ぎ越す。黒光りする車の後部に回り、開けた狭いトランクに荷物を全て放り込んだ。
「あまり時間がないんだ」
 趙雲は馬超から少し離れ、助手席のドアの付近でそれに倣ったらしい。車道側から茶色いパイプに寄り掛かり、右手の指先で袖を僅かに押し上げていた。
 また、時間を気にしている。
 刹那、目の端が引き攣れた。
 些細な仕草が小癪に障る。苛立つ気持ちを躱しきれなかった手が、いつもより乱暴にトランクを閉めた。
「時間って何だ。待ち合わせでもしてるのか?」
 不明瞭な言葉の裏側を確かめたいだけなのに、図らずも問い詰める口調になる。語気の強さと、どうしようもない鬱屈と。そんなものが積み重なって、遣り場のない怒りは簡単に増幅されてゆく。
 ドアを解錠しようと取り出した鍵は、寒さも相俟って上手く鍵穴に嵌らなかった。
「待ち合わせか……」
 迫る面体に眉を動かす事もなく、脳裏に何かを返すように趙雲は昏い穹窿を見上げている。
 そこに流れる空気だけを異にする悠然とした雰囲気に、鳩尾の辺りが灼け付くような痛みを覚えた。硬い感触に弾かれながらも繰り返し、幾度目かでようやく差し込んだ鍵を、力任せに右に捻る。
「そう、言って言えない事もないかな」
 鍵の開いた音が耳に届いたのだろう、ドアに目を落とした趙雲は、仄かに嬉しげな様子を漂わせて呟いた。そうして、屋根越しに見詰める瞳にも視線を合わせないまま、車の中へ消えてゆく。
 蔑ろにされているようで、それがまた腹立たしかった。
 通り掛かる車のない車道に向けて扉を開き、運転席に乗り込む。荒っぽく扉を引き閉めた勢いのまま、身体ごと助手席に向き直った。
 フロントガラスの向こう、翳す街灯に浮かぶ横顔は白く冴え、香炉峰の雪に見紛うばかり。
「こんな日に?」
「こんな日だから」
 たわいもない事のように返す口振りが、簾越しに覗く他人の影が。贖い難い拘泥執着と解してはいるけれど、それでも赦す事ができなかった。寛容と人が言うほどに、心が広い訳ではない。
 助手席のシートに左手を突き、覆い被さるように身を乗り出す。
「誰と?」
 飄々とした面を割るように激情を表に現して、鋭い声を上げた瞬間、甲高い電子音が趙雲との間から聞こえた。それを待っていたような手が、スラックスのポケットに忍び込む。
「……君と」
 囁く口の端が、笑んだ。
 見せ付けるかのように目の高さに掲げられた携帯電話の液晶画面は、今まさに年が明けた事を示している。
「明けましておめでとう」
 婀娜めく容貌を馬超に差し向けて、趙雲は笑み刷く口のまま言った。
 当の馬超はと言えば、余りの事に驚き呆け、開いた口が塞がらない。いっそのこと、減らず口を叩き付けてやろうかとも思いはしたが、幾ら何でも礼儀に欠ける。渋々といった風を余所行き顔に装いもせず、乗り気にならない口先を開いた。
「……おめでとう」
 散々に振り回されておきながら、礼儀も何もないのではないか、と。
 頭を垂れてから気付きはしたけれど、今となっては何もかもが手遅れだった。
「なんなんだ、もう」
 浮上できない額を厚手のスーツになすり付け、俯いたまま、やってらんねぇ、と小さく漏らす。雪崩れ込んだ馬超を受け止めた身体が、小刻みに上下した。
「いつも驚かされてばかりだから、たまには驚かせようと思って」
「やりすぎだ。釣りが出る」
「なら、余った分を年賀にして返してくれ」
 諸手を挙げた馬超を余程愉快に思うのか、笑みを漂わせた声が弾む。
 何かを賭けた覚えはない。だが、何時にない饒舌と無邪気に、何故か負けた心地になる。尤も、このまま引き下がれるような性分ではなかったが。
 埋めていた肩口から顔を上げ、馬超は改めて趙雲の顔に瞳を据えた。
「帰ったら、身体で払ってやるよ」
 醒めた笑みに唇を歪め、見透かすように囁き掛ければ、暗がりに光る双眸の奥で抑えきれない艶色が、じわりと滲む気配がする。怖じたみたいに戦く膚に悪性が過ぎたかと、胸をよぎった後悔も、しかし長くは続かなかった。
「それは……」
 言い掛けて止めた唇が、ゆったりと綺麗な弧を描く。虹彩に染みた影を拭うように瞬いて、趙雲は清げにも挑む笑顔になった。
「楽しみだ」
 肩を抱き寄せ、細い顎に手をやれば、僅かに仰のく顔がけざやかに照る。
 服わぬ獣を宿した瞳には、日毎、夜毎の恋を潜め、闇に紛れて重ねた唇の類い希なる温もりに、我知らず胸が高鳴った。