月に吠える

 満月の夜は居室の周囲の火を灯さずにおく。裏院子に面した窓を一枚だけ開け、そうして待つのだ。
 私の美しい獣を──。


 やがて白光が天頂にかかるのを待っていたのか、大きな影が月を背に翻るのが見えた。音はない。静寂の世界を駆ける白銀が、艶やかに月光を反射している。
 その巨躯からは考えもつかぬほどしなやかな動きで、獣は塀の上に飛び移った。
 剥き出しの爪が掻いたのだろう、拭いた屋根板が微かな音を立てる。
 眼前には大きな口。声もなく見詰める瞳は闇に沈んで深く、それでいながら内に黄金の光が奔っている。
 普段、邸で、或いは宮城で顔を合わせる時とは趣を異にするそれが己だけを映している事に、趙雲は酷く充たされていた。
 そこには人の思惑を持たない獣の純化した感情が顕れ、それに引き摺られるように白く浮き上がった貌が嬉しそうに笑んでいる。
 不意に獣の身体が浮き上がり、窓際に佇んでいた趙雲に飛びかかった。 
 さすがに重い。
「重いですよ」
 揶揄する口調で文句をつければ、呼応するように獰猛な声が喉の奥で鳴る。
 けれど、僅かばかりの恐怖も湧かなかった。
 喰い殺されようと、構いはしない。戦で散るくらいなら、いっそ獣の血となり肉となり、同化して生涯を共にしたいと思うほどだ。
 満月を背負った獣が、表情を伺うように趙雲を覗き込んでくる。
 頑是無くも見える仕草に胸の奥から湧いて出るのは、虚構を取り払った甘い感情だけだった。
 ひたすら純粋に求める眸を向けられている時だけ、素直に手を伸ばす事ができる。
 首筋の亜麻色の毛並みを緩く撫でながら、常からそうであればいい、と思っている自分がいた。
 長い毛足は柔らかく温かく、肉を喰らう荒々しい顔をしている癖に妙に安らぐのが奇妙におかしい。
 私だけの美しい虎。月の下、白銀に輝く獣。
「……戻って」
 腕に抱えていた大きな一枚布を被せると、虎は低く一声鳴いた。
 布越しに口付ける。
 光を遮れば、趙雲を抑え付けていた前脚は見る間に細くなり、同族に紛れれば仄白いだろうの毛皮は人肌の色になった。
 それを、少し勿体ないように思う。
 本音を言うと趙雲は、這い蹲った虎の横腹に寄り掛かって眠るのが好きだった。
 だが今、心が希うのは瞳の方だ。大きな玻璃の感情がそのまま残っている眼差しが欲しい。
 獣は馬超に変化して、毛は頭に戴くたてがみだけになった。
 感触は獣のそれと異なるが、根本の何が変わる訳でもない。
 じゃれつくように、それはすぐに首筋に埋められ、趙雲はこそばゆいと密かに笑った。
 はたり、と板を叩いていた尾が床に落ち、間もなく布の中へと消えてゆく。
 もう触れる感覚は人の肌だけだ。
「……掛け布を外すなよ」
 満月の夜だけ繰り広げられる戯れ。布の影から見下ろす瞳は、平素とは違う猫目石の様相を呈していた。
 けれど、自分だけを見詰め返すそれに、うっとりとしながら趙雲が目を瞑る。
「……わかっています、私の虎」
 そう呟くと趙雲も、月影から逃れるようにして自ら作り出した闇の奥へ滑り込んだ。