壺中天

 油照りは何時まで続くのか。
 焦点の甘くなってきた墨色にそんな事を思って、趙雲は筆を置いた。
 大きく開け放った窓の向こうに見る空は、青いというよりも白い。室内に比べれば圧倒的に明るい外界が、視界を充たす程の光暈を呼んでいるせいだ。
 ほんの少し、弾指の間とも言えぬ程だと思うのに、遍く降り注ぐ透明度の高い陽光に眼底が既に痛みを訴え始めている。経験則から弾き出された体感の値は、決して歓迎できるものではない。
 また今日もか、とうんざりした溜息を薄く開いた唇から零し、気を取り直したように改めて筆を取り上げた。
 木立にしがみついているのだろう、蝉が騒がしい。
 この処の激務が祟ってか、時雨というよりは驟雨にも似た音色に意識が攫われそうになる。現が遠離ってゆくのを楽しむ程の余裕はなく、けれど不快に思うでもなく淡々と感覚を追っていた耳に、容赦のない雑音が届いたのはその時だった。
 静謐を破る事で、どれだけの不興を買うか理解しているのだろうか、彼は。
 庇の影を纏う回廊に視線をひたと当て、苛立ちの儘に立ち上がる。次第に近付いてくる力強い足音を聞きながら、趙雲は戸口へ向かった。
 この宮城に出入りする者の中で粗野な足音を立てるのは張飛だが、ただ強いだけとなると一人きりしか覚えがない。説教は好かないと顔を顰めようにも、そもそもの原因を自ら作り出しているのだから自業自得としか言い様はなかった。
 機嫌の悪さを隠しもせず、両開きの扉を引き開ける。
 案の定、亜麻色の髪が間近に迫っていた。
「ばちょ……」
「ああ、ここにいたのか。すまん、入れてくれ」
 趙雲が小言を切り出すより早く、肩先で暑気を切って馬超が部屋へ入り込んでくる。
「ま……っ」
 待て、と拒絶を返す暇もなかった。
 ぐらり、と影が傾ぐ。
 不意の出来事に咄嗟に伸ばした腕で受け止めたのは、恐らく彼の身体だけではない。出入り口と同じように塞がれて、立ち行かなくなってしまったのも、また。
 ただ、それを素直に呑み込んでしまうのが怖ろしかった。
「このような所で寝ないで下さい」
 どれだけ咎めようとも、耳に届いていない事はわかっている。
 それでも、黙っていたら温もりの先から何かに侵蝕されてゆくような気がして、納得しきれない事の成り行きを詰らずにはいられなかった。
「……何故、いちいち私の部屋へおいでになるのです」
 腕の中の馬超は目を閉じて、既に意識を水底深くに沈めている。
 抱え直した身体よりもなお、吐いた溜息は重かった。
 どういう理由か彼は、たびたび趙雲の許を訪れては睡眠を貪って帰ってゆく。この奇妙な習慣めいた行動が始まったのは、彼が劉備に帰順して間もなく、益州を手中にした後の混乱が治まりを見せた頃からだ。
 あの時の馬超の顔は、そう簡単に忘れられそうにない。世界の終焉を知ってしまったかのように、酷く憔悴して見えた。
 ── 眠れないんだ。
 過ぎる程直情的な彼の理由は、曲折を知らない。故に断り切れない事は、無意識の確信の内にあったのだろう。
 そうして、打ち解けたとは言い難い趙雲の裡に彼は踏み込んで来た。
 ── すぐ治ると思うんだがな。
 確証などなかったに違いない。だが、言葉の裏に見え隠れする願望とも紛う彼の本音は、冗談の一言で笑い飛ばしてしまえる程軽くはなかった。
 別懇とは言えない相手であったとしても、趙雲も救いを求める手を無碍に打ち払える程心無い訳ではない。生来の良心には逆らえず、彼の身を案じる余り、何の警戒もないまま部屋に招き入れる事を決めたのは自分自身だ。誰が悪いのでもない。
 それにしても、人の眠りとは斯くも不用心なものだろうか。
 殊の外、無防備な姿を晒されると却って対処に困ると気付いたのも、彼の奇行を目にしてからであった。
「……迷惑だ」
 大体、いくら押し掛けられたからと言って、本当に自分が馬超の面倒を見る必要があったのか。
 確かに、かつて涼州の太守であった男が弱っている姿を露呈するのを良しとしない矜恃と理性は、趙雲の理解の範疇にある。だが、それ以外の理由を冷静になって探してみれば、答えは疑う余地のないほどに明白だった。
 第一、城内には相応の室房を与えられているのだから、わざわざ回廊を渡って趙雲の所まで足を運ぶ必要もない。従弟である馬岱が、ほぼ常に側に付いているのだ。多少の難事が降り掛かろうと、意識の不明瞭な身体は守られるだろう。少なくとも、不穏な気配のある己の側よりも居心地は良いはずだ。
「全く、世話の焼ける……」
 約束のように足下に零れた愚痴は、けれど、そう不機嫌そうでもない。仕様のない、と胸の内に呟いた声も諦めのそれには聞こえなかった。
 形ばかりの強がりを溜息に逃し、趙雲は原因でもある馬超を抱えて、頼りない足取りで部屋の奥に引き込んだ。
 身長差にして頭半分。一回り大きな、況して独歩していない彼を支えて歩くのは、いくら武に長けた趙雲であっても決して容易な事ではない。足元に多少の不安を覗かせながら、それでもどうにか部屋の半分ほどを横切ると、仮眠用の簡素な牀の上に馬超を放り出した。
 多少乱暴だったか、と後悔がちらりと脳裏を掠めたが、彼が目を覚ます様子はない。執務に使う方卓に背を向けて横たわる馬超は、死にも似た深い眠りに陥っている。
 吹き抜けの風が肌を撫でて過ぎたが、夕立を予感させる寒さはない。しかし、そのままにしておくのも気が引ける、と趙雲は椅子の背に掛けてあった薄物を取って彼の腹を覆った。
 結果として残された有様を、絶望の眼差しが見下ろしている。
 一連の行動の先にある感情が何を意味するものか、無論、気付いてはいた。だが、それを教えてしまうには互いの立場が柵んで、果たして赴くままに情動を渡しても許されるのか、答えは未だ出せずにいる。
 戸惑いの消えないまま踵を返し、趙雲は窓際に置いた榻を選んで腰を下ろした。脚を投げ出すみたいに椅座して窓枠に凭れる。無為の空間を挟んだ向こう側にいる微動だにしない馬超を見詰めているのが苦しくて、外を見る素振りで目を背けた。大きく張り出した庇の内に、青碧色の点がぽつんと見える。ともすれば庭に同化してしまいそうな風鐸は他でもない、彼が持ってきたものだ。
 ── 見ていたら、あなたを思い出した。
 そう言って少年のように目を輝かせるから、掌に乗る程の硬玉の細工物が幾許の重さを持つか理解もせずに受け取ってしまったのだ。ただ、何時か訪れるだろうその日になって、小さな存在証明に馬超が困惑しないとも限らなかったので、思い悩む理由を教えることなく在るべき場所に吊している。
 どうすればいいというのだ。
 握り合わせた両手に時折力が籠もるのが、自分でもわかる。
 改めて問うまでもない。最近、手を伸ばしたい衝動を抑えるのが少し辛くなってきていた。
 下がり藤のように垂れた水晶の飾りが、風に吹かれて翻る。放たれた涼やかな音色は、まるで拾い損ねた真実のように耳に遠く、微かにしか聞こえる事はなかった。
「ん……」
 ほんの小さな声が耳朶を掠める。
 室内に目を移せば、投げ出された形の儘でいた身体がゆっくりと解けてゆき、乾いた衣擦れを立てて寝返りを打った。一足遅れで落ちた手が、牀の上で蠢いている。
 誰を、捜しているのですか。
 決して質す事の出来ない問いが、心の中に積み重なっては膿んでゆく。
 胸が痛い。
 瑕を抉る不安の刃を突き立てたまま、それでも趙雲は立ち上がった。馬超の傍らに跪き、放り出された右手を掬う。固い手の甲を宥める仕草で何度か撫でてやると、意外にも安心したのか指先の動きはぴたりと止まった。
 中途半端に伏せた背中が、深い呼吸を繰り返す。穏やかな眠りに就いた馬超の表情は、城郭で見かける年相応の者達と比べても大差ない。むしろ捻くれたところのない分、あどけなさが漂う程だ。
 それなのに、命が吹き込まれ、手指の先まで力が漲っている時の彼は、蜂蜜を溶かしたような両眼で常に何処かを見詰めている。力強い二本の足で蜀の地を踏みながら、遠い故郷に思いを馳せているのだ、きっと。
 だから、なのだろうか。
 浮かべる笑顔は人懐こく、纏う空気があくまで温かくとも、彼が自ら引く最後の一線は誰も越える事が出来ないでいる。
 否。
 恐らくはたった一人だけ。何時か再び、彼の支えになる誰かが現れたならば、若しやの可能性も残されてはいる。しかし、趙雲がそこに辿り着く事はない。
 共に戦い、傷付いても、人知れず孤独を選ぶ男の頭に趙雲は手を滑らせた。
 亜麻色の髪は、軽やかな見た目通りに柔らかい。糸玉のような、こそばゆいような、何とも形容しがたい感触をして、ざんばらな毛先が徒に梳る掌をささやかに刺し返してくる。児戯にも等しい手遊びに声もなく眦で笑いながら、気が付けば趙雲は頬を馬超の髪に押し付けていた。続く衝動を抑えきれず、鼻を額に擦り付けるようにして肌から香る匂いを嗅ぐ。汗と陽の匂い。そして、そこに混ざった何かを脳に刻み込むように。
 もし、と趙雲は思った。
 今、彼が目を覚ましたらどう思うだろう。
 年嵩の男が自分の上に折り重なって頬を寄せている光景など、端から見れば滑稽以外の何ものでもない。
 それを知っても今まで通り、いや、むしろ図に乗って今まで以上に纏わり付いてくるだろうか。それとも、二度と趙雲の許を訪なおうなどとは考えなくなるだろうか。
 彼の子供染みた習性が感染ったように、髪に頬を擦り寄せる。図らずも薄い唇が弾力のある肌に触れて、肩から力が抜けた。
 温かい。
 顔を寄せ、滑らかな額に額を重ねて目を瞑った。
 このままで、どうか。
 正気付くまでの間だけ。抜け殻の間だけで構わないから、諦めの悪い……私のものに。
 他に望む事など、何もなかった。


 引き摺られるようにして、何時の間に眠ってしまったのか。頬の上を何かが通り過ぎたのに気付き、趙雲は目を開けた。瞬きをして、その正体を知り、はっとして視線を上げる。
 馬超は、先に目を覚ましていた。
「あ……」
 それ以上、上手く言い繕える言葉が見当たらず、結局、趙雲は口を噤んだ。
 抱き寄せたまま眠りに落ちた言い訳をする余地は、何処にもない。あとは、断罪の瞬間を待つばかりだ。
 当然のように取り上げられてしまった手が、真っ直ぐに趙雲を目指して伸びてくる。
 微妙に相似比の異なる影に目を瞑り、緊張に身体を硬くした。
 何を責められるのか。
 零れた髪に差し入れられた掌の行方を恐れ、胸の前で両手を強く握り締めた。
「目が覚めたか」
 するり、と丸い骨の形を教えるように頭から耳へと撫でた手が、柔らかな感触のまま頬を包む。未だに離れようとしない体温を額に感じながら恐る恐る目を開けると、ほんの間近に屈託のない顔があった。
「俺も、よく寝た」
 笑っていたのだ。
 ゆっくりと、馬超の手がもう一度頭を撫で、固まったまま動けずにいる趙雲の項を抱く。何処か懐かしい、乾いた匂いが鼻腔を擽った。
 引き寄せ、引き寄せられ、互いが顔を近付け合って唇が触れそうになる。だが、このまま絆されてばかりではいけない、と腹の底に渦巻く疑念が趙雲に声を上げさせた。
「馬超殿」
「……何だ?」
「貴方は……嘘つきだ」
 押し止められ、僅かに尖らせた不満気な口を舐めてしまいたいと頭の片隅で思いながら、趙雲は不実を詰る言葉を口にする。
 わからない、と訴えるように意志の強そうな眉が寄った。叱責された気がするのか、馬超の手が首筋を滑って離れてゆく。
 首の後ろが、急に冷えたように感じた。
「眠れないと言ったのは嘘だったのですか。酷い顔も茶番ですか」
 趙雲が項垂れて呟く。咎める気持ちは、欠片さえもなかった。
「何か不都合があるのであれば、丞相に報告しなければならないと……」
 況して、懺悔でもない。
 彼の抱えた瑕を共有出来ないのが、ただ寂しくて、悔しくて。それでも足掻き続ける自分が惨めで仕方がなかった。
 なのに──。
「なのに……」
 貴方は、狡い。
 声は続かなかった。
 そんな風に優しくされたら、繋がれた手を振り払うにも呵責が付いて回るようになるだろう。囲まれて、守られて、そうしていつしか呼吸すら、一人では儘ならなくなってしまうに違いない。その結果に、彼は気付いているだろうか。
 俯いたまま、寝そべった馬超が身動ぎするのを聞いた。そっと伸ばされた掌が、趙雲の手を握り締める。武人らしい肉刺だらけの大きな手の腹に、息が止まりそうになった。
「それは、趙雲殿がいてくれたからだ」
 伺うように近付いてくる気配は温かく、真綿のようにやんわりと趙雲を包み込んでゆく。
「あなたがいなかったら、俺は今もまだ酷い顔をしたままだった」
 震えそうになるのを堪えて目を瞑ると、口の端に人肌の感触が押し付けられた。ぎこちなく顔を動かして乾いた粘膜を重ね合わせ、押し殺した息をまさに肌で感じる。そして、温かい身体が薄物ごと、自らの意志を持って趙雲を腕に抱えた。
 背中の強張りが、自然と解れてゆく。此処こそが安寧の地なのだと、教えてくれている気がした。
 永遠に続く筈がないとわかっていても、趙雲はそれを下らない感傷だと笑い飛ばす事が出来ない。目隠しをされたまま何時しか追い遣られたのは、二度と外に出る事の叶わない壺の中だ。何処にも干渉しない、何処からも繋がらない特異な世界に趙雲の失望は存在しない。胸の奥、柔らかな場所に水の気配が込み上げる。
 閉ざされた偽りの平和の中、揺れる風鐸の音が聞こえた。