夜の血脈

 趙雲の機嫌が頗る悪い。
 昼前までは平素と変わりなかったように記憶しているから、何かあったとすればその後だろう。だが、馬超に心当たりはなかった。
 原因を質そうにも、あからさまに接触を避けられてはそれもままならない。
 相愛だと思っていた趙雲に拒絶され、馬超は存外に傷付いた。
「いよいよ愛想を尽かされたのでしょうか」
 茶を啜りながら馬岱が口に上らせた揶揄を、聞き流してやれるほどの余裕もない。
「何だと」
「おや、ご立腹とは図星でしたか?」
 飄とした口調に目を吊り上げてみるものの、今は亡き弟らと同然に育った馬岱には堪えた様子が少しもなかった。
 剰え些事だとでも言いたげに核心に触れるものだから、それ以上の言葉を持ち得ない馬超は口を噤むより他にない。
「気になることがおありなら、直接訊いてみてはいかがです」
 そんな事は百も承知の上だ。だが、かつて味わった絶望を顧みれば、質す一歩に怖じる気持ちを誰が咎められるというのだろう。あの虚無に再び落とされたなら、二度と這い上がる事は出来ないようにさえ思った。
「従兄上……」
 呼びかける馬岱の声から既に揶揄の響きは聞いて取れない。一族に降り掛かった惨劇を知る者として、拗れた今の状態のままで良い筈がないと恐らくは彼も案じているのだ。
 残されたのはたった二人の血筋だが、宗主として腹の括りどころなのかもしれない。
 無辜の眼差しに背を押されるように、馬超は黙したまま邸を後にした。
 趙雲とは情を交わすようになって随分と経つ。互いの邸を通い合う間に馴染みになったせいか、他家を訪なうには遅い亥時の正刻も回った頃だというのに趙家の家令は快く迎え入れてくれた。だが、心安さに反して手燭に照らされた彼の表情は酷く冴えない。
「どうした?」
 心配になって馬超が問えば、主が塞ぎ込んでおりますと言う。
「朝は平素と変わりなくご登城なすったのですが、お帰りになってからこちらお部屋に籠もりきりになってしまわれて」
「そうか。実は俺もそれが気になっていてな、夜更けに迷惑だとは思ったが押し掛けてしまったのだ」
「迷惑などととんでもない。将軍に訪ない頂けてこれほど心強い事はございません」
 馬超が詫びるのに恐縮する一方、安堵の胸を撫で下ろす様を見るに今回の不機嫌の根は相当に深そうだ。厄介だとは思いつつ、元凶の一端を自分が握っている可能性があるとなれば放り出して帰る訳にもゆかない。
 出来る事はしてみよう、と足元を照らす家令に告げ馬超は趙雲の室の前に立った。
「馬将軍がおいででございます」
 扉越しにかけた声に返る言葉は無論ない。
 困ったように眉尻を下げる家令に小さく頷き返し、後は俺に任せろと下がらせる。果たして一人取り残された邸内は、勝算のなさを嘲笑うが如く深閑としていた。
「子龍、そこにいるんだろう?」
 掌で触れた戸は内側から棒でも支ってあるものか押して開くどころかびくともしなかったが、すぐ側には確かに人の気配がある。
 応えがないのにも構わず、馬超は言葉を重ねた。
「岱にな、愛想を尽かされたのだろうと言われたよ。腹が立ちはしたが、正直、否定する事は出来なかった」
 自嘲に頬を歪め、祈るように額を扉に押し付ける。
「……俺は……また、お前を傷付けてしまったのか」
 搾り出した声は苦渋に満ちていた。
「誹りならば甘んじて受けよう。縒りを戻せないというなら、不本意だが自業自得だ仕方があるまい。責を負おう。代わりにせめて理由を……」
「……違、う……」
 内から流れてきたか細い声が先を遮る。
「子龍?」
「違う……孟起は何も悪くない……」
「なら、ここを開けてくれ」
 朝から顔を見ていないと縋る思いを募らせたが、返されたのは余所余所しい隔意ばかりだ。
「……できません」
「何故だ!」
「明日には、必ず……ですから……今宵は、お引き取り下さい……」
 己の影すら覚束ない、けれど確然とした拒絶に激昂し、扉よ割れよとばかりに握った拳を打ち付ける。
 怯んだか、薄い気配がついと離れた。どうあっても開けるつもりはないらしい。
 心弱くなっているにもかかわらず強情を通すというのであれば、馬超の側にも張る意地がある。
「……わかった」
 理解ではない呟きを暗がりに一つ与えて扉前を離れると、室前の走廊にどっかと腰を下ろした。
「お前が出てくるまでここで待たせてもらう」
 夜分も気にせず朗々と宣うのに、内から戸惑う声が応える。
「そんな……それでは病を得てしまいます。どうか」
「身を案じてくれるなら室に入れてくれ。それが出来ないのなら放っておけ」
 突き放すように迫ると諦めたものか、以降は何も返ってこなかった。
 暫くすると、座り込む馬超に気付いた家令が慌てた様子で綿入れを持ってきた。気遣いは無用だとそれを固辞し、またぞろ闇に沈む中庭を睨め付ける。
 そうしてどれくらいか意識を失っていた。昼の疲労が祟って、図らずも眠っていたらしい。
 薄く開けた視界から不意に影が退き、光が射した。
 蹲った身体には、家令が持ってきたものとは違う綿入れが掛けてある。
 趙雲だ。頑固に動こうとしない馬超を気遣った彼の方が先に折れ、室を出てきてくれたのだ。
 今少し上手く働かない頭がそう思うのと、手が伸びるのではどちらが早かったのか。
 躊躇うように翻った裾の端を、気付いた時には掴んでいた。
「いくな……」
「……!」
裾を額に付けて押し戴き、懇願の声音で引き留める。
「俺を……置いて、行くな……」
 頑是無い童と変わらぬ駄々に負けた趙雲が膝を突き、手をそっと伸べてくる。
「身体を壊してしまいます。中へ入りませんか」
 頬を撫でて誘われ、ようやくに重い腰を上げた。
 室に招き入れられて間を置かず、趙雲を背後から抱き締める。驚きにか膝を砕いた彼を支え、縺れながら床に尻を落とした。
「何故、俺を拒絶した」
「拒絶など……」
「しただろう。違うと言うなら言葉を変えようか。俺を避けたな、何故だ」
 変えた問いに口が戸惑い、それからゆっくりと言葉が紡がれる。
「岱殿と祭祀の話をしているのを耳にしました」
 思い返してみれば、昼頃に馬岱との間でそのような事が話題に上った記憶がある。
 聘礼を執り行わなくてよろしいのですか。誰のだ。従兄上のです。何も持たない俺が義兄弟などと、どうして頭を下げられる。だからといって今のままで良い訳はないでしょう。じゃあ、お前代わりに仕切ってくれないか、おおよそは覚えてるだろう。従兄上でなくては意味がないのですよ。
 確か、そんな内容だった。それを聞かれていたという事か。
 年少の馬岱に叱り飛ばされていたと知られればばつが悪い。だが当面の問題点は恐らくそこではないだろう。
「祭祀を行うのは宗主の役目、血を絶やしてはいけない事もわかっています。けれど……」
「けれど?」
 言葉尻を取り、逡巡するのを促した。
「……つまらぬ悋気です」
 忘れて下さい。
 存外切なげに言って、懺悔のように目を伏せる。
 忘れろと言われたからといって忘れてやれるほど素直な質ではないが、それを軽々と上回る歓喜に馬超は快哉を叫びたくなった。
 趙雲の悋気の矛先にあるものぐらい容易く想像がつく。見た事もない、それ以前に予定すらない婚儀の相手への嫉妬だ。発露は無意識だろうが、彼の中に自分という存在が幾許かでも根付いている証である。
 ざわ、と音を立てて狂気にも似た快が背を昇ってゆくのがわかった。昂揚のまま抱き締める腕の力を強くする。
「もう、き……!」
 慌てたように逃げ打つ肩に腕を巻き付け、振り向いた顎を鷲掴みにして無理な体勢を強いつつ口を吸った。舌を絡め唇を食む濃厚な口付けに力を失った身体を床に横たえる。
「落魄れた家の血脈など、どこぞの物好きにでもくれてやる」
「……馬鹿な事を!」
 吃驚に勢いを得て振りかぶった右手を掴み、手首の内側に浮いた筋に唇を寄せた。滑らかな肌の感触を愉しみながら、ぞろりと柔い肉を舐め上げる。
「代わりに、お前の命脈が欲しい」
「あぁ……」
 熱っぽく囁けば、趙雲の口が極まったように綻んだ。
「なぁ、子龍」
 重ねて呼んだ字に応える首が小さく頷く。
 服う様に喉の奥を低く鳴らし、馬超は火照った趙雲の胸先へ潜っていった。