そして僕は途方に暮れる

 俺は今、猛烈に混乱している。
 そしてこれを読んでいるあなたが貞淑な女性であれば、先に謝っておこうと思う。のっけから、多少どころか多分に下世話なたとえを持ち出して大変申し訳ない、と。
 何故か? 女の子を抱いた夜の話だからだ。

 遅くに仕事から俺の部屋へと帰ってきた彼女は、上司に褒められたとか、明日が休日だとか、会社帰りに立ち寄ったスターバックスのクレームブリュレマキアートが美味しかったとか、そういった小さな幸福が重なって上機嫌だった。いちいち頷いてやりながらビールを呷る俺を相手に、梅酒やカシスオレンジみたいな甘い酒の缶を開けてゆく。
 にこにこと笑みが止まらない彼女は抜群に可愛くて、無防備だった。多分疲れもあったと思うのだが、勢いに任せて押し倒した俺を「シャワーぐらい浴びさせてくれてもいいのに」と困ったように笑っただけで受け入れた。
 それに女の子という生き物は、シャンプーの匂いが一緒だとか、風呂上がりに貸したTシャツが大きいとか、些細なことを嬉しがって男を喜ばせるものだ。おかげでその夜は目眩く程に甘く、事が済んだ後もぴったりとお互い引っ付いて眠ったほどだった。
 たとえにしては、随分詳細な話じゃないか──あなたはそう疑問に感じているかもしれない。これを敢えて『たとえ』と呼ぶのは、この体験を俺自身でさえ信じられないからだ。
 いや、信じたくないと言った方が正しいかもしれない。
 つまり、その一連の奇跡を巻き起こしたのが子龍であるという事を。
 俺はもう、とにかく驚いて、今もまだ眠っている穏やかな顔を凝視しては毛布を少しだけ捲り、彼が全裸でいることや、自分が付けたらしい首筋の赤い痕を発見して愕然とするより他になかった。
 昨夜は雰囲気に流されて、放さないよハニー、ぐらいの正気に戻れば鳥肌ものの言葉を口走った可能性すらある。
 往生際悪く、可能性という逃げ道を残したのは、実は、よく覚えていないからだ。もちろん、記憶をなくすほど泥酔していた訳ではない。第一、酒に呑まれたからといって無体を働くような、いわゆるろくでなしに落ちぶれるつもりも毛頭なかった。それなのに、手元に残された記憶は、うっすらと霞がかかったように輪郭がぼやけている。
 だから、起きて隣に子龍の寝顔があった時は、正直、我が目を疑った。どれくらいの動揺かというと、蹴り出されたのでもないのに右半身が自然にベッドから落ちたくらいだ。
 前提として、以前から俺と彼がそういう関係だったことは否定しない。そこに関しては潔く認めよう。
 手を伸ばすのは、いつも俺。そして子龍は毎度毎度、満員で喫煙席に追い遣られた嫌煙家みたいに仕方なさ気な表情を浮かべながら、物好きだな、と呆れた声を出すのだった。
 顔立ちは整ってはいるものの、彼はお世辞にも見目麗しいOLなどではなく、社内外を問わず業界に片足でも突っ込んでいるなら知る人ぞ知る敏腕営業マンに他ならない。普段ならば「髪の毛お前と同じ匂いする」とか「お前の服おっきいな」みたいな事を、とろんとした目や笑顔で言うなんて有り得ないのだ。
 だから俺は今回、OLと無意識の浮気をしたか、或いは頭の中で妄想しすぎて可愛い子龍の幻覚が見えていたかのどちらかだと、浅い夢の淵で思い込むことにした。

 電話が鳴ったのは、午前11時になる少し前だった。
 俺はシャワーを浴びて着替えも終え、ひたすら寝こけている子龍を床に座って茫然と眺めていたから反応が遅れた。しかも昨夜のどさくさに紛れて、携帯が脱ぎ散らかした服の中に埋もれてしまっている。一枚ずつ確認しながらの捜索に手間取り、けたたましい着信音は随分と長い間鳴り続けた。
 子龍が起きる気配と共に、こんもりとした毛布の山の中から不機嫌極まりない声が飛んでくる。
「もうきぃ……、うっさい……」
 朝日の力で、可愛いOLの幻覚は既に露と消えたらしい。今の子龍はエクソシストに杭を打たれかけているドラキュラのようだ。とてもではないが、密かに社内に棲息しているファンには見せられた姿ではない。
「今、探してる」
 床で力なくたぐまっていたバスタオルの、更にその下のジーンズを持ち上げると、ポケットから携帯が滑り出てきた。
「あった!」
「おそいー」
 達成感と共にベッドに倒れ込むと、俯せたままの子龍の手がペシリと横っ面を叩く。指先が唇に引っかかったせいで開いた口に入り込んでしまった指は、そのままずるずると顎を伝って落ちていった。
「何してんだよ!」
「うるさい、早く出ろよ」
 指に齧り付いて反抗してやろうかと思ったが、電話の相手を待たせる訳にもいかないので諦めることにする。
「もしもし?」
「あ、兄上。岱です」
「なんだ、お前か」
 目上の誰かからだったら申し訳ないと思ったのに、こんな時間に岱からかかってくるとは想定外だった。しかも、同じマンション内に住んでいるのに、だ。
 それにも関わらず、岱は心外そうな口調で声を張り上げる。
「なんだはないでしょう。出てくれないかと思いましたよ。それとも今、都合悪いですか?」
「いや、部屋にいるし、都合悪くはないんだけどな。それよりお前、何回も何回も親の仇みたいに電話鳴らしやがって、こっちは猫が怒って大変なんだからな」
「誰が猫だ」
 またも口元めがけて突っ込みが入るが、今度は届かず顎に当たった。
 不測の事態に目を覚まされた子龍は仰向けになって額に片手をやり、掌の庇の下から俺を睨んでいる。横の窓から射す木漏れ日が、彼の鎖骨から首筋にかけてちらちらと穏やかに移ろい、俺が付けた欲深い印を光明に隠した。
「猫ってなんです?」
「……気にすんな。で、何だ?」
「あ、そうそう。兄上、前に欲しがってた部品あるじゃないですか」
「おお、言った言った! まさか、見付かった?」
 岱は、ふふん、と得意げに鼻を鳴らす真似をし、もったいぶるように切り出した。
「ありましたよ。見付けました」
 思いがけない朗報だ。俺はがばりと起き上がり、スプリングで跳ねた勢いで胡座を掻く。
「さすがは岱、馬家の結束は伊達じゃないな」
「いえいえ、勿体ないお言葉です」
 どうやら岱の元気な声が所々漏れ聞こえているようで、子龍はたまに笑いを漏らした。高くなりつつある陽光に目が慣れたらしく、上半身だけゆっくりと起き上がる。あくびをしながら伸びをする様は、猫そのものだ。
 俺の耳元では岱の話が続いている。
「で、こっそり土産にして驚かせようかとも思ったんですけど、思ったより高いし嵩張るしで」
「あぁ、そうか」
「どうします、兄上来られますか? もし来るなら、キープしておきますけど」
 傍らを見遣ると、視線に気付いた子龍がにじり寄ってきた。
「いや、行きたいのは山々なんだけどな……」
 嫌な予感がした数瞬の後、背中と脇腹に何やら力強く温かいものが触れた。程なくして裸の腕が前に回ってくる。子龍が左斜め後ろから抱き付いているのだとわかって、俺は危うく携帯を取り落としそうになった。
「何……」
「え、どうかしました?」
 思わず上げた声に、岱が耳敏く訊ねてくる。肩胛骨に頬を当てた子龍が喉の奥で楽しそうに笑うのを衣越しに感じながら、何でもない、と取り繕った。
「もしダメなら、どうしましょう。取り置きしておいてもらえるのかな、これ」
「あるのわかってて……焦れるな。近いし行くか」
 優柔不断の自覚はなかったはずなのに、行くか行くまいかの簡単な選択ができずにいる。
 迷いは即ち子龍を無視することに等しく、その報復なのだろう、今度はシャツの裾から冷えた手が忍び込んできた。あまりの温度差に身を震わせると、俺の二の腕の裏に頬を押し付けたまま、彼は吐息だけで笑った。
「来ます? いいですよ。そしたら僕、待ってますから」
「そうだな、バイクだったら、ぅわ、痛ぇっ!」
 反射的に声が出てしまった。子龍が形の良い指で鳩尾あたりの薄い皮膚をつねってきたからだ。
「さっきから何してるんですか?」
「いや、だから、ちょっと引っ掻かれた」
「はぁ? 引っ掻かれた? 兄上、そこのマンション動物禁止ですよ。バレる前に里親探した方がいいですって」
 無闇なまでに朗らかに笑いまくる岱と連動して、子龍まで楽しそうだ。
 こいつの里親捜しなんか不可能だ、と大声で叫びたくて仕方ない。
 今のこちらの状況を、岱には知られたくなかった。恥ずかしさで事実を隠すしかないとわかっていて、子龍はわざと俺を揶揄っている。その証拠に、会話が途切れたりしないよう、顔周りには手を出してこない。
 いわゆる確信犯というヤツだ。これだから回転の速い頭の相手は困る。
 俺は溜息を吐くと、背中に張り付いた身体を振り払いたくなるのを堪え、空いていた左手で子龍の両手の人差し指を一纏めに捕まえた。うわっ、と驚く声が背後から聞こえたが、そんなものに構いはしない。大切な指を握り潰さないよう、けれど擦り抜けられない程度の絶妙な力加減で拘束を強める。最初こそ耐えていた子龍だったが、数秒としない内に他の8本で頼りなく腹をタップしてきた。降参の合図だ。
 よし、勝った。
「ほんとに今日どうかしたんすか? なんか変ですよ」
「そうか? 普通すぎて困るくらいだけどな。で、何時頃までなら、お前暇?」
「どうせ時間あるし、今日中に帰れれば問題ないです」
 ついに力を失った子龍の腕が、変な優越感を抱かせる。どこか気持ちも軽く岱と会話をしていた俺の項を、突然何かが這っていった。息を呑み、肩を竦めると、携帯を当てているのと反対側の耳に子龍が唇を寄せて囁いてきた。
「孟起」
 柔らかく濡れた舌が、息と一緒に耳の表面を撫でてゆく。
「Trick or Treat?」
 昨夜の可愛い子龍の回想が、脳から脊髄を駆け抜けた。
 何だ、その殺し文句。バカか。子供でもあるまいし、そんなもので俺が屈するとでも思ってるのか。
「……あー、悪ぃ。今日はやめとくわ」
 心と身体は裏腹だ。自分でも救いようがないと思うが、さっきと違って瞬時に結論が出るあたり、子龍に飼い慣らされた証拠なんだろう。
「そうですか? まぁ、突然だし、しょうがありませんね」
 仕方ないと言いながらも岱は取り置いてもらえるか店に確認してみると申し出てくれ、その上で取りに来るの忘れないでくださいね、などと口酸っぱく言い残して電話を切った。
 ありがとう岱。俺は面倒見の良い従弟を持って幸せだ。
 二つ折りの携帯を閉じると、既に身体を離していた子龍を振り返り、俺は改まって正座をした。
 きょとんとした顔をしているのも、それはそれでいい。
 無言で見詰められて居心地が悪いのか、子龍は怪訝な表情を浮かべてシーツを腰に巻き付けた。
「何?」
「いや。いつもだったら、行ってこい、って言うのになぁ、と思って」
 神妙な顔で疑問をぶつけると、子龍は訳ありといった風に視線を外した。
「……なんか、お前が俺以外と楽しそうにしてるの直接見たらムカついた」
 ぼそりと放たれた一言に酷く動揺する。だが、俺の身体も心も引っ括めて貫いた衝撃が去ると、じわりと染み出すように喜びが湧いてきた。堪えきれず、顔が綻ぶのが自分でもわかる。
「何それ、嫉妬? もしかしてやきもち焼いたのか、お前?」
「知らない」
「知らないって事はないだろ。嬉しいのに」
「うるさい、ばーか!」
 まともに答える代わりに、子龍は俺から携帯を奪い取った。何をするのかと問う間もなく、目の前で膝立ちになって振りかぶる。
「あーっ!」
 しなやかな右腕から、小さな機械が放たれた。
 彼の同僚になって二年。そのコントロールは未だかつてないほど抜群で、針の穴を通すような、といった比喩がいかにもしっくりくる。
 できたら野球大会でその能力を発揮して欲しいんだがな。
 そんな、場違いなことを思う俺の目の前で、携帯が部屋の隅に放置されていたクッションに着地した。だが、登板すればアマチュアながら130キロ台後半をコンスタントに計測する腕に投げられたのだ。もちろん無事で済むはずがない。跳ね上がった本体は床に落ちてコマのように回転し、その側を衝撃で派手に外れ飛んだバッテリーのカバーが壁に向かって走ってゆく。
「し、子龍……」
 口を開けて唖然としている俺に向き直ると、唇を尖らせたままの子龍は、もう一度ぎゅっと強く抱き付いてきた。
「お菓子くれないからイタズラしてもいいんだよね」
 だよね、て……お前、そんな……。

 ……ああ。俺は今、猛烈に混乱している。