情事の後の重い身体を引き摺りながら、趙雲はバスルームへと姿を消した。
白い枠のドアを閉め、透明プラスティックのコックを捻る。無数の小さな穴から吐き出される湯は身体の表面を滑り落ち、床に向かっていくつもの流れを作った。
無駄に強張っていた筋肉が、ゆっくりとほぐされてゆくのがわかる。
例えばマッサージのように、物理的な力が加わっている訳ではない。けれど、それを心地良いと感じて、趙雲は腹の底に溜めていた息を吐いた。喉を心持ち反らせ気味にして、二度、三度と深呼吸を繰り返す。次いで、頚を前へと傾け、直径1メートルに満たない超局地的な雨を頭から浴びながら、湿り気を帯びた暖気で肺を満たした。
それが悪循環の始まりとも知らずに。
密度の高い空気が符合したのは、過去とも呼べぬほど、極めて浅い場所にしまわれた記憶。瞬時に蘇ったヴィジョンに、趙雲は息を呑まざるを得なかった。
口元を覆う大きな掌と、熱が籠もったままの呼気。循環することを忘れ、明らかに酸素濃度の低い大気を吸い込めば、驚きを理由としない軽い眩暈が纏わり付くように襲い来る。
その感覚は、彼──馬超に与えられる深い口付けに、良く似ていた。
もっとも、欲の赴くままに趙雲を抱く馬超に、何かしらの謀があるとは思えない。だが、想像が醸す二つの個体の生々しさは、確実に肉体と精神の両面から趙雲を蝕んでいった。
堪えきれず、足下に落とした吐息の艶めかしさが、理性の奧に埋められた熾き火を揺らす。
今はまだ小さな焔が、その赫い舌を周囲に伸ばし始めるより先に。手遅れになる前に消してしまわなければ。
誓うほどに強く思い、両手に作った拳を白くなるほどに握り締めはしたけれど。
「入るぞ」
間近から聞こえた声に、一瞬、心が挫けた。
夥しい量の湯を止めることも忘れ、勢い込んで振り返る。そこには開けたドアと戸口の隙間から長身を滑り込ませ、面白そうにこちらを見ている馬超がいた。
頭の片隅で警鐘が鳴り響いている。理屈などではなく、もっと根元の深い所で身に降りかかるだろう危険性は察知していた。なのに、強い力に引き寄せられたように目が、床に釘打たれたかのように足が、動くことを拒否している。
馬超なら、先に寝入ったはずだった。確かめてからベッドを抜け出してきたのだけれど、それすらも彼の確信の内にあったということか。
意図したように曝け出された全裸に、意識が引き摺られてゆく。こく、と小さく喉が鳴った。
所など構わずに、叶うなら今すぐにでも、彫像のように均整の取れたその身体に触れたいと思う。抱き締められた腕の筋肉の隆起を指先に辿りながら、いっそのこと喰らい尽くしてくれたら、と。
置かれた状況も時間も顧みず、際限なく膨れ上がってゆく劣情に後ろめたさが倍加する。
肌に張り付いた髪の先から落ちてゆく雫が愛撫する指を連想させて、一層居た堪らずに唇を噛んだ。
「どうした?」
その様子を不審に思ったのだろう、訝るように問いながら、馬超がゆっくりと近付いてくる。
僅かな風の流れに身の毛を逆立てながら、趙雲は強く頭を振った。
「何でも……」
気付くな。
「出る、どいてくれ」
頼むから、気付いてくれるな。
努めて冷静さを装いながら、煌々と室内灯をつけた脱衣所を目指した。趙雲が望んだ通りに身体を引いた馬超の脇をすり抜ける。もう届きそうだ、と縋るように伸ばした手は、しかし戸口に触れることはなかった。
肘の辺りを鷲掴みにした馬超の手に、容赦のない力で引き戻される。
抗う間もなく汗をかいた壁に押し付けられた背中が、引き攣れたように痛んだ。
「な……っ」
何をする、と。
心の底から彼を憎むような目付きで睨み返した瞬間、咎める言葉は喉の奥に消えた。
「そんな顔して、俺が見逃すとでも思ってるのか」
口の中が干涸らびてゆく。
趙雲を凝視する榛色の眸には、燃え盛る氷塊にも似た、明らかな情欲が燻っていた。
思い付きのようなセックスに彼の気の済むまで付き合っていたら、今度こそ全てが跡形もなく壊されてしまうかも知れない。
「孟起っ……はな、っ……」
互いの体温が空気を通しても伝播する至近距離で吐き出した声は、酷く怯えて掠れている。
たった二本の腕で完全に自由を奪われてしまっている現状は、体格差を差し引いてもやはり惨めに思えてならない。それでも、と身を捩ったその時、奥まった細い器官が騒めいた。重力に逆らうことを知らない粘液に狼狽える。
「やめ、ろ……って……っ」
腰を庇ったものの間に合わず、ほんの僅か早かった馬超の手が崩れ落ちかけた趙雲の身体を引き上げた。閉じた最奥に指が触れる。
「やめ……ぇ、っ」
抱き竦めるような腕に弱い抵抗を戒められながら、そっとそこが押し開かれた。ややあって中から流れ出した精液が趙雲の脚の内側を、青臭い匂いを撒き散らしながら伝い落ちてゆく。
「遠慮することなんかないのに」
「ぅる、さ…………っ」
愉快そうに目を細めた馬超へ悪態を吐こうと開いた唇は、結局言葉を為さないまま、突き入れられた指に息を呑んだ。
「すぐ終わる、黙ってろ」
何がすぐ終わるのだろうとは、もう、意識の片隅にも昇らない。
「あ………ぁ、ン」
伸ばした腕で男の身体を抱き寄せながら、勿体を付けるように内襞を抉る指を追って、趙雲は身悶えた。
限界と思うまで欲望を吐き出してから、一時間と経っていないだろう。中で受け止めたものを掻き出すだけだというのに、こんなにも反応する身体が恨めしい。
迂闊にも陥ってしまった理性と欲求の狭間に横たわるジレンマを振り払うように、趙雲は広い背中に爪を立てた。
「う……あ………」
「結構、入ってんな」
低く呟いた馬超の声にも色が点している。
欲を孕んだ吐息が首筋を掠めて撫でてゆくのに、肌が焦れた。
急速に高まる熱に落ち着かず、もそりと身動いだことさえ咎めようというのか。趙雲を抱く腕に力が篭もり、腰が押し付けられた。互いの昂った性器が擦れ合い、馴染んだ愉悦に肌が粟立つ。それでも絶頂にはあと一歩届かない。痺れるような陶酔を貪るように背中を反らせると、粘膜が穿たれた指を締め付ける。
「ぁ………は、っ」
突然齎された強い刺激に、趙雲は短く悲鳴を上げた。
限りに後ろに折り曲げて、潰れた気管では呼吸一つままならない。頭の芯にまといつく霧の濃密さに眩暈を覚えながら、自分を拘束する男へ救いを求める。
「も……ぅき」
頬に指を添え、甘い声でキスをねだった。
近付いてくる唇を受け止めようと首を傾げて、揺れた視界の端を曇った鏡がよぎる。
「あ………」
鈍く映り込むのは誰だろう。
ひやりと得体の知れないものが忍び寄ってきて、趙雲は慌てて鏡から目を逸らした。
「や、やめろ……っ………やめろ、孟起っ」
「今更やめられる訳ないだろ」
子龍も、と耳元で唆されてまた喘ぐ。
「……ぁ……あ………や」
床を叩く軽やかなノイズの他に、淫らな水音が聞こえてくる気がした。
「あ……ん………も、き」
もう放してくれ、と懇願する。
呂律の回らない口は邪魔とばかりに、上から覆い被さるように塞がれた。
知らない、あんなのは。
ぐらぐらと定まらない思考が尚も追い縋るように拒絶する。
伝える言葉は持たず。けれど口を噤んでいることもできずに、緩く握った拳で馬超の肩を叩いた。
追い上げる手を止めて、何事かと訝る目が顔を覗き込んでくる。
「どうした」
「……ゃ……もぅき」
「おい?」
「かがみ、が……」
掠れた声で趙雲は呟いた。
「あんなのは、知らない」
「ん?」
「知らないんだ……」
譫言のように言って、瞼を伏せる。
足りない言葉の断片からは、告げたかったことの半分も汲み取れはしないだろう。隠された先を問うように、馬超が趙雲の顔を覗き込んでくる気配があった。
しかし、趙雲に瞑った目を開ける事はできなかった。
「子龍?」
もう、何も見ない。鏡の中のあの姿をまた見てしまったら、今度は叫びだしてしまうだろうから。
自ら戒めるように、馬超の首根に眼差しを埋める。
彼に抱かれている自分は、あんな顔をしているのか。
思い返して息を殺した。
あんなのは知らない。知りたくもなかった。
力なく首を振ると、髪の先に溜まっていた水滴が勢いに任せて散ってゆく。まるで、放埒の飛沫のようだった。
あんなに淫らに。あんなに幸福そうに。抱かれていたなんて。
「知らないんだ……」
呆然と口を衝いて出た言葉はシャワーの音に掻き消され、馬超の耳に届かなかったかもしれない。
それで良かった。
否。そうではない。
心のどこかで声がした。
それを望んでいたのだ、お前は。
この身体が必要とされている間だけは、少なくともこの場所に居続けることができる。
顧みてみればその事に、確かに趙雲は安堵した。
脚を持ち上げられ、散々弄り回された入り口に馬超の熱を感じる。抵抗のないまま、一気に刺し貫かれた。
「……あ………は、っ……くぁ」
挿入の衝撃で、固く閉ざしていたはずの目が僅かに開く。
曇った鏡に、浅ましく乱れている自分の姿が映っていた。
広い肩越しに見える、鏡の中のその姿。それこそが、俺が求めている本当のものなのかもしれない。
逆しまの世界に棲む趙雲は、憂うものの何もないように、酷く満たされた顔をしていた。