足音

 また一歩、踏み出した足下で枯れ寂びた音がする。
 初冬の土は枯色の褥を纏い、束の間の死に静まりかえっていた。
 遙か高処を行き過ぎる霜風だけが、ただ騒ぐ。
 一際高く聳え立つのは、欅か楡か。一叢の梢がざわと揺れ、枯れ萎れた衣を脱ぎ落とした。残された冬枯れの枝振りが凍えたように、痩せさらばえた身を震わせる。
 やがて消えゆく風籟は赤気に似て、失せてのち黙した見えぬ帳の向こう、僅かに気配がさざめいた。
 何処からか降り立った、姿なき韋駄天が野を駆ける。一刹那の間を置いて、枯れ葉が湧き上がった。
 踊る北風は髪を攫い、顕わにされた輪郭を撫でて過ぎ行く。氷の刃と紛う寒気に馬超は引き結んだ唇を僅かに開き、ふ、と短く息を吐いた。風の緒に嬲られた吐息が、仄白く濁る。些細な事に冬の訪れを感じて、知らず、頬が弛んだ。
 子供の頃から、冬は好きだ。大人たちが顔を顰めるほどの寒さも気にせずに走り回っていたくらいだし、何より雪の降る度に浮かれていた。
 尤も、と唇だけが苦笑する。
 今となっては、かつての大人たちの気持ちも理解できないのではないのだが。それでも、凛と張り詰めた空気は心地良く、身を引き締められる思いがした。
 そう言えば、互いの想いを確かめ合った趙雲と情人同士になったのも冬だった、と過ぎた季節を脳裏に返す。確信を持って忍び込んだ彼の部屋で初めて抱き合ったのは、もう一年も前の事だ。未だ戦いは続いてはいるけれど、あの時の不安定な心情を思えば、現在のこの平穏を幸福に感じずにはいられない。
 ゆっくりとした歩みを止め、込み上げる感情に促されるまま振り仰ぐ。捧げる祈りはない。冬枝が亀裂なす白銀の天蓋を見詰め、ただうっとりと、微睡むように微笑んだ。
 風が足を忍ばせて通り過ぎる。
 眇めた視界を何かが掠めた気がして目を凝らせば、細く棚引く煙る吐息を掻い潜り、羽毛の塊が落ちてくるのが見て取れた。差し伸べた掌に、けれど触れては消えて行く。
 初雪だった。定まりなく身を翻し、ちらり、ちらりと落ちてくる。
 ふと、周囲に目を転じてみると、思う以上に降りは強かった。下草の中には、既に白斑になっているものもある。
 留守居をする趙雲も、そろそろ気付いているに違いない。要らぬ心配に眉宇を寄せては、窓の外を眺めているだろうか。幾度となく目にした切なげな表情は、そう簡単に忘れられるものではない。迂闊にも思い出し、綻んだ胸裡のまま、くつくつと喉の奥で笑った。そうして、改めて気付く。
 懐深く迎えてくれる冬枯れの城郭の何処にも、初めから自分の居場所などなかった事に。
 唇に笑みを含んだまま、外衣の裾を靡かせる。逸る気持ちも隠さずに、枯れ葉の吹き溜まる道端に足を運んだ。
 帰ろう。
 趙雲が待つ、あの家へ。



 長い冬の夜の訪れに太陽は早、傾いて、山の陰に隠れて潜む頃かと思う。大空に敷き詰められた白銀色の天鵞絨は、何時しかその色を褐色に染め変えていた。地は黄昏の薄闇を纏い、飾る景色もまた判然としない。輪郭さえ溶けがちな夕景に舞い落ちる雪の、降り止む気配は一向になかった。
 趙邸の門前に張り出した庇の下で、馬超は己の身形につくづくと目を向ける。
 降り頻るのを避けもせずに歩いていた所為で、暗色の外衣は所々に霜を置いたようだ。頭頂も、何だかひやりと冷たい。
 特に目に付く肩と、鏡に映すまでもない頭上を手で払うと、重さのない雪が僅かばかりの光を受けて、細氷のように閃いた。数え切れない水滴が足下を濡らすより早く、黒光りする扉に手を掛ける。重厚な樫の一枚板を押し開けると、屋内は別世界かと思う程に明るい。自然、零れた安堵に肩の力を抜き、外衣を脱いだ。
 もしかしたら、今夜あたり来るとでも趙雲に聞かされていたのかもしれない。
 馬超の訪ないに直ぐさま気付いた家僕にそれを渡して、無造作に足を踏み出す。掛かる自重に、板張りの床が軋んだ。
 気付いたのは気配にか、それとも耳を素通りしそうな足音か。
「おかえりなさい」
 玄関を背にして右手の奥、厨から趙雲が顔を出した。
 もちろん彼が手づから料理をする訳ではなかったが、何らかの拘りを持っているらしい。馬超が趙邸を訪問する際には、かなりの頻度で厨にいる彼を見かける事があった。
「ただいま」
 頃合いから見て、夕餉の指図をしているのだろう。引っ込んで、言いそびれてしまう前に短く返し、彼が普段使っている居室へ向かった。
 ことり、ことり。
 規則的な足音が、万に一つの間違いもなく背後を付いてくる。
 重なり合う度に増幅されてゆく残響が、決して嫌いというのではない。ただ、こんな風に雑音のない空間には自己主張も憚られるように思えて、少しばかり気が引けた。
 大門ほどではないにしろ、十分に厚い木扉に遮られた居室には暖気が満ちている。房に入ってすぐに外した首巻きを手近の椅子の背に掛け、まるで物を放り投げるように乱暴に榻に腰を下ろした。心地良い硬さを持つ茵に受け止められた身を沈め、腹の底に溜めていた息を吐き出す。目を瞑ると、凍えていた疲労が抹消から流れ出してゆくのがわかった。
 室の隅に置かれた火桶の中で炭が熾っている。風が気紛れに窓を撫でてゆく事を除けば、他に音らしい音はなかった。磨かれた鏡面にも似た静けさは、だがしかしこの地上にある限り、完全な無音に支配されることはない。大気のささらぎに耳を澄ませば、背後の壁を隔てるその向こう、家僕に紛れて忙しなく立ち働く趙雲の足音が聞こえた。
 彼が床を踏む音だけは、どこにいても聞き分けられる。
 踊っているようでもある足取りは、その方向を玄関へと変え、そして──。
 今、居室の扉を開けた。
「……何を笑ってるんです?」
 不意の指摘に声の上がった方を横目で見遣れば、扉に手を掛けたまま困惑顔で戸口に突っ立っている趙雲が見える。その様が可笑しくて、自覚もなく緩めた口元を、より一層、際立つほどに綻ばせた。
「別に、大したことじゃない」
 曖昧に答えを濁す言葉一つではぐらかせると思うほど、彼を甘くは見ていない。だが、馬超が隠すたわいもない真実を、趙雲が追求する事もないだろう。確信犯の狡さをして空惚ける風を装い、肩を竦めて座り直した。
「まぁ、構いませんが」
 どうでも、と。案の定、急速に興味を失くしたように彼が呟く。
 一旦、手を離した扉を身体を捩るようにして閉め、振り返ってからの数歩で馬超までの距離を縮めてきた。目の前に差し出されるまま、小振りの盆から茶碗を受け取り、薄い陶器の縁に唇を寄せる。仄かな湯気と共に赤黒い液面から立ち上る渋みを帯びた芳香に、軽い酩酊を覚えた思考が微かに揺らいだ。
「それより」
 無造作に、しかし繊細に伸ばされた指が頬に触れる。常になく、熱く感じた。
「こんなに冷たくなるまで何処に行ってたんですか」
 発熱しているのではないかと、胸に抱えた危惧が一瞬の内に覆される。
「どこへも。家からここまで歩いてきただけだ」
「あなたの邸からは半刻も掛からないというのに?」
 驚きを隠しもせず問う声に、手元から目を上げた。
 足の向くまま気の向くまま、刻々と移ろい行く空の色に時を任せきりにして。何を気に留めるでもなく、ふらりふらりと歩いているだけの身に時間の観念などありよう筈もない。
 当たり前の道理をけれど直ぐには納得できず、真偽を質す視線を向けるのに趙雲は眉を顰めて見せた。
「……いつか絶対、風邪を引きますよ」
「大丈夫だろ」
 供された茶を一口啜る。爽やかな酸味を孕んだ温かな液体が喉を滑り落ちるほどに、凍えた身体を内側から解してゆくようだ。指先にまでじわりと広がる安寧に、赤鈍色の息を吐く。
 呆れたのは他人事のように言い返す口調にか、それとも何処までも暢気な態度にか。
「大丈夫じゃないから言ってるんでしょう」
 腰に手を当て、仁王立ちになった趙雲が、手に負えないとでも言いたげにに首を振る。
 それが、何故だか自分に説教をする馬岱を思い起こさせた。顔が取り立てて似ているというのではないのに、少しの仕草ばかりが似ているのが微笑ましくて、表情に薄い紗のような笑みを刷く。
 それもまた、気に食わなかったのかもしれない。右手に持った小盆の縁で肩を一つ叩いて、大体、と珍しく詰問調に趙雲の口が続ける。
「何だってこんな寒い最中に散歩に行かなきゃいけないんですか」
「ここにはお前がいるじゃないか」
「……は?」
 間を置かず返した答えが良く飲み込めていないのか、馬超を見詰める目が丸くなった。
 何を不思議に思うのだろう。馬超の中ではこんなにも、確固とした存在をして胸の内を占めているというのに。
 訝しんでばかりいる趙雲こそを不思議に思って、馬超もまた眉根を寄せた。鏡像のように首を捻って、ふと思い付く。
 趙雲は気付いていないのだ、自分の存在の大きさに。
 無論、馬超が大切に胸に抱いている感情が、好意を越えた深い愛情である事は承知の上だろう。生涯の伴侶と決めている事も。だが、それが同時に馬超にとって己の同体にも等しい意味を持つ事を、彼は知らない。否、理解していない。恰も、忍び寄る季節の足音を、誰もが聞き落としてしまうかのように。
 そしてそれは、全く同じ意味合いを自分もまた持つ事に、漸く気付いた。
 これまでに越えてきた修羅場の数も、文字通り命を張った回数も、愚かに張り合うつもりはない。時に狡猾なまでの機知に長けた趙雲が、裏を返せばたわいもない言葉一つに戸惑う様が可笑しかった。
 だからといって、徒に彼を煩わせる真似など出来ようはずもない。
 一度は顰めた眉間を開いて馬超は、二度、三度と軽く曲げた人差し指で趙雲を呼んだ。
 端近に佇む趙雲の身体が、見えない糸に吊られたように前に傾ぐ。馬超が差し伸ばした右手は、けれど血色の良い頬を素通りして、剥き出しの首筋に緩く絡んだ。項を引き寄せ、何者も介入できない距離に顔を近付けて囁く。
「お前が待つ家に帰りたかったんだ」
 趙雲のつるりとした眦に皺が刻まれるのが、見えた。